「北の国から 98 時代 (前編・後編)」
蛍が金を借りに歩いていた。
雪子のところに突然現れて、
「おばさん、今お金いくら持ってる?」
昇太兄のところにも訪れてきて、牛舎で交わす
「やっぱ話すな。オラ、口軽いぞ。。喋って楽になれ」
昇太兄は事業を大きくし、農業の工業化、大規模化を押し進める。
隣りの畑に疫病が出たとしたら、「オラんとこの畑に疫病さ伝染すな」とプレッシャーをかけてくる。
正吉の蛍へのプロポーズは、
百万本のオオハンゴンソウ。
純「妹だぞっ!たった一人の。。妹だぞ..」
とすぐウィスキーを取り出しグラスに注ぐ。
五郎に二人の結婚を報告。急なことだけど。
あまりの驚きとかけめぐる思いに、口がきけない五郎。
やがて皆をおいて、家の扉の内側に入りむせび泣く。
蛍と正吉の結婚祝いの盃してるところに、
「畑に疫病が出た。。」って泣きながら妻が。
「俺の畑に、疫病伝染す気かっ」、てトラクターの上の昇太兄は鬼の形相。
「お腹の子は、正吉の子じゃない」
クリスマスの季節に久しぶりにシュウと会う。
いいムードになったので、休憩に誘うと「純に任せる」と。
数少ない街のモーテルは車で順番待ちだった。
過疎の町にも賑わいが。。みたいな純のナレーション。
純はスナックで草太にまた農業やろうと誘われ、断る。
最近の草太兄ちゃん、おかしいよ。仕事を大きくするのに熱くなり、金の話しかしなくなった。
そんな矢先に、トラクターの事故。
「純は、俺にとって弟だ。だから自分は、心配だ。」
純「蛍、正吉のこと、、、ほんとに好きなのか?」
蛍「好きよ。だって正ちゃん、大きいんだもん」
束の間、五郎は蛍と二人暮らし。
(父親としては、娘が嫁ぐ前の束の間の時間。娘から感謝され、いたわられ、でも別れを前提にした限られた時間で、あまりにも幸せな期間なんだろうなこの時間って)
五郎の石の家で、布団に入りながらの二人のシーン。
「そっちの布団に行ってもいい?」
「母さん、言いたかったんだよ。父さんの方が素敵なのに、どうして礼なんか言うんだって」
「父さんは、素敵です。」
「父さん。父さんのこの匂い、ゼッタイ忘れない」
「父さん、お兄ちゃん、おばちゃん。蛍は、勝手ばかりしてきたけど、父さんたちのことを忘れたことはありません。ここで暮らした八つからのこと、ほんとによかったって思います。出来るなら蛍は、あの頃の蛍にもう一度戻りたいって思ってます。これからは正ちゃんと仲良く暮らします。父さん、ほんとにありがとうございました。」
結婚式で美保純が流す、草太のスピーチ練習テープ。
エンディングは中島みゆきの時代。
実に壮大な偉大な歌だ。
『銀の匙(中勘助)』
とにかく、子ども時分の思いや考え方をここまでよく覚えているな、と思う。
幼い頃からもの心つくまでの主人公(否、これは筆者そのものだ)の心情を、みずみずしくごう自然な文章で綴られる。
主人公は、体が弱く育ちの遅れた神田っ子。
甘えん坊の幼少期。周囲の人間はおおらかで優しさかった。
私のようなものが神田のまんなかに生まれたのは河童が沙漠で孵ったよりも不都合なことであった。近所の子はいずれも神田っ子の卵の腕白でこんな意気地なしは相手にしてくれないばかりかすきさえあれば辛いめをみせる。
四角い字こそ読めないが驚くほど博覧強記であった伯母さんは殆ど無尽蔵に話の種をもっていた。おまけにどうかして忘れたところは想像でいい按排につづけてゆくことに妙も得てるのであった。そうして侍であれ、お姫様であれ、それぞれの表情と声色をつかって、しまいには化けものの顔までしてみせるのが行灯のうす暗い光に照らされて真に迫ってみえた。
私はそのじぶんから人目をはなれてひとりぼっちになりたい気もちになることがよくあって机のしただの、戸棚のなかだの、処かまわず隠れた。そんなところにひっこんでいろいろなことを考えてるあいだいいしらぬ安穏と満足をおぼえるのであった。それらの隠れがのうちでいちばん気に入ったのは小抽出の箪笥の横てであった。
お惠ちゃんとの二人遊びの数々。
次の日にはお祖母様に手をひかれて玄関まで暇乞いにきた。私はいつもの大人びた言葉つきでしとやかに挨拶をするお惠ちゃんの声をきいて飛んでも出たいのを急に訳のわからない恥ずかしさがこみあげてうじうじと襖のかげにかくれていた。お恵ちゃんはいってしまった。
「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」
という。私より以上の反感を確信をもって彼らの攻撃をひとりでひきうけながら
「きっと負ける、きっと負ける」
といいきった。そしてわいわい騒ぎたてるまんなかに座りあらゆる智慧をしぼって相手の根拠のない議論を打ち破った。
が、鬱憤はなかなかそれなりにはおさまらず、彼らは次の時間に早速先生に言いつけて、「先生、□□さんは日本が負けるっていいます」
といった。先生はれいのしたり顔で
「日本人には大和魂がある」
といっていつものとおり支那人のことをなんのかと口ぎたなく罵った。それを私は自分が言われたように腹に据えかねて
「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでしょう。日本に加藤清正や北条時宗がいれば支那にだって関羽や張飛がいるじゃありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を送った話をして敵を憐れむのが武士道だなんて教えておきながらなんだってそんな支那人の悪口ばかり言うんです」
兄はその年ごろの者が誰しも一度はもつことのある自己拡張の臭味をしたたかに帯びた好奇的親切。。
お友だちはふりかえりふりかえりしてたがしまいに立ちどまってくたびれたのか、気分でもわるのか と親切にたずねたので正直に
「波の音が悲しいんです」
といったら兄は睨めつけて
「ひとりで帰れ」
といった足をはやくした。お友達は私の意外な返事に驚きながらも兄をなだめて
「男はもっときつくならなければないけない」
といった。
ある日のことまたそんなにして川のなかに立ってたとき私は足もとにあるまっ白な石を拾おうとして身をかがめた。それを兄はじきみつけて
「なにする」
といった
「石をひろうんです」
「ばか」
私はもういつものように恐れなかった。こないだから考えて考えて考えぬいてある。
「兄さん」
私は後ろからしずかに呼びかけた。
「兄さんが魚をとるのに僕はなぜ石をひろっちゃわるいんです」
兄は
「生意気いうな」
と怒鳴りつけた。私は冷ややかに笑ってまともに兄の顔を見つめながら
「僕のいうことがちがってるなら教えてください」
兄は
といって手をあげた。私は黙って垂れさがった枝のさきにびくをかけ崖をあがって帰りかけたが、うす暗い木の蔭にここんでるのを見ると急に気の毒になり、あんなにいうけどきっとやっぱし寂しいんだろう とおもって岸のうえから一所懸命によんだ。
「兄さん、兄さん、居てあげましょうか」
兄は知らん顔して網をそろえている。
「さようなら」
私は丁寧に帽子をとってひとりで家へ帰った。それから私たちは決していっしょに出かけなかった。
私の何より嫌いな学科は修身だった。
銀の匙 (岩波文庫) | 中 勘助 |本 | 通販 | Amazon
『影裏(沼田真佑)』
今日の 芥川賞受賞作発表の前に上げておくんだった。
先ほど、深夜のニュースで作者と受賞作の短評を聞く。
「震災小説」と説明されていた。
記者会見での質問にあったのだと思うが、「自分は岩手に住んでいるので、禊のつもりで書いたつもりが、ないわけではない」という回答だけ切りとられていた。
作者の声も、気持ち苛立ちの感じを含んでいたように感じたのは気のせいだろうか。
なるほどう。そうか。そう言い表されてしまうのか。
確かに、作中に津波に関する描写もあり、そのことが登場人物に直接影響してくるわけだが、その人物の大きなものの崩壊(カタストロフ憧憬みたいなもの)に繋がっていく部分はあるのだけれど、その4字で表されてしまうことの簡単さ
というか便利さ(それはあたかも原発が簡単に取り出せる電力であるかのように)に抵抗を覚えた。変な話だが、そう称されてしまうことでこの本はある程度の認識を抱かれて売れないのだと思う。
我々「勝手に芥川賞選考会」でも、受賞作の一つとして推された作品(もう一つの青春小説「星の子(今村夏子)」とダブル受賞ではあったが)。
釣りを通じて親交した、「何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすい」日浅という男の謎めいた不気味さと不確かな友情(あるいは恋慕)を描いた作品だ。
そもそもこの日浅という男は、それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた。
どんなことを喋ったのだったか、初めて交わした会話の内容はおろか、その印象さえ、わたしは忘れてしまっている。
けれどこうした親密なつき合いのうちにも、日浅のそのある巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向はいっこうに薄れる気配がなかった。
現にようやく目的の釣り場に到着しても、頭上高くにひろがる杉の穂に、竿先が触れない程度には注意を払いながらも、内心はまったくうわの空であるらしい。黙っていると、このまま延々と日浅は水楢や、ほかにもまた橡や白柳といった愛着深い倒木の追想に耽り釣りどころではなくなってしまう。
→改めてここの描写なんて書き写して思う。こんな人間やゔぁいわ。精神構造、崩壊してるかも。。。
自分の川を発見したのは五月だった。
アパートから、自転車でも十分足らずの近距離に流れる里川である。
→そう、主人公はとにかく釣りにのめりこむ。首都圏からの転勤を言い渡され、釣りが全ての生活になってしまっている。それくらい釣りには魅力があるんだ。コミットしてしまうものなんだ。中国人も古い諺で言っている。「一生を楽しみたいなら、釣りを覚えなさい」みたいな。
雨の日に遊園地に出かけるような、心もとない気持ちを抱えて、わたしがこの川原に到着したのは六時過ぎだった。
→こうした不安げで不穏なイメージをまとう比喩や表現はそこかしこにあった。
その日は朝からめずらしいたよりが連続してあった。岩手への異動が本決まりになった二年前、気詰まりな対話を重ねた末に別れてこの方音信がなかった副嶋和哉から、パソコンにメールが届いた。
→読者は誰もがこのあたりで一回「?」が点滅。もう一度読み返して、つき合っていた相手が男であると知る。しかも、副嶋という男。これを暗示ととってもやむかたないか。
「すまねえが、今野よ」電灯の加減で額ばかり白く、まるで目の表情がわからなかった。「互助会、入ってくんねえだろうか。一口足りねえんだ」
ここで口早に日浅が語ったところを要約すると、半期で六十口のノルマがあるのだが、これに達していないらしい。今月すなわち本日じゅうにあともう一口契約を得なければ雇用を切られてしまうのだという。
「いや、やめとこう。やっぱり」酒を置き、かわりにわたしはシェラカップを手に取った。中に三分の一ほど飲み残していたコーヒーはすっかり冷めて弛緩しており、香りも何もなかった。
「帰らなきゃならないんだ。明日は出勤になったから」
言いながら口ごもってしまい、それでこの嘘は見破られてたはっきり感じた。鮎の焼ける匂いがつんと鼻についた。
「課長、死んじゃったかもしれないよ」
まず口の中のデニッシュを、わたしは全部呑み込んだ。この人のいう課長とは、現実のあの、五十がらみの課長職にあたる人物ではない、日浅典博のことなのだ。
ふと凄まじい揺れを、足もとから全身に感じて立ち上がり、思わずいったん、顔を空に向ける。テトラポッドを軽くひと舐めするように、黒々と濡らして消える波の弱音を聞く。この数十センチの小波はしかし、あの大津波の第一波なのだ。
→ここは「あの日早朝から家を出て、午前中は契約を求めて釜石市内の住宅地を回り、〜した日浅が」 と神の視点であの日の日浅が描かれる部分。
巨大な海水の壁だとわかったときにも、日浅の足は動かない。却ってその場に釘づけになる。まじろぎもせず、目ばかり大きく見開かれるのに決まっているのだ。そしてその瞬間、ついに顎の先が、迫り来る巨大な水の壁に触れる、いつも睡眠不足でくたびれたような、その最後の瞬間まで、日浅は目を逸らすことなどできないだろう。
「あの男と縁を切る決意を固めてくれたわけですから」
取りつく島がないとはこのことだろうと、内心わたしはうなっていた。息子を勘当した以上、それは父親として意地があるのも当然だった。しかし今度の場合は例外だろう。日常的な感情は一切留保するべきじゃないかと思い、食い下がった。
「あのばか者のためにどなたの手も、わたしは煩わせる気は起こらんですよ」それにお言葉ですが、と日浅氏は続けた、息子なら死んではいませんよ。
ただ、どうもわたしとのあいだに見えない建具が、一枚も二枚も挟まっている、何といいますか、徹頭徹尾隔たりを感じるのすね。
息子はといえば一心不乱に何やら数をかぞえあげながら、爛々と目を輝かせて彼女たちを下から見上げているんです。おぞましいものを感じましてね。力づくで息子を抱えあげ、さっさと公園をあとにしたのを覚えてますよ。思えばあれが、息子との隔意の遠因でしょうかね、わたしが息子を、明確に不気味だと感じてしまったことが。
「いずれにせよ何らかの事件で、あの男の名前は新聞に出ますよ。わたしは確信しています」
→異常な殺意や犯罪意識を抱えた人間ってのはこの世の中に存在するんだと思う。親がなんと言おうがどう育てようが、子に芽生えてしまったその火は消せない。圧倒的な悪意が特定の人間に巣食うとき、犯罪は必然になる。
全編に漂う、雨の日、川辺の湿った陰鬱なイメージがつきまとって離れない。
不穏さと不気味さで一気に読ませてしまうその力量は、新人賞受賞にふさわしい。
「震災文学」と言われてしまうと、それで分かってしまった気になる。
そんな批評には、ただ抗いたかった。
『戦場に立つということ(2016年9月6日付 朝日新聞オピニオン面)』
デーブ・グロスマン(戦場の心理学専門家)
戦場に立たされたとき、人の心はどうなってしまうのか。国家の命令とはいえ、人を殺すことに人は耐えられるのか。
「米陸軍のマーシャル准将が、第二次大戦中、日本やドイツで接近戦を体験した米兵に『いつ』『何を』撃ったのかと聞いて回った。驚いたことに、わざと当て損なったり、敵のいない方角に撃ったりした兵士が大勢いて、姿の見える敵に発砲していた小銃手はわずか15〜20%でした。いざという瞬間、事実上の良心的兵役拒否者が続出していたのです。」
「発砲率の低さは軍にとって衝撃的で、訓練を見直す転機となりました。まず射撃で狙う標的を、従来の丸型から人型のリアルなものに換えた。それが眼の前に飛び出し、弾が当たれば倒れる。成績がいいと休暇が3日もらえたりする。条件付けです。刺激ー反応、刺激ー反応と何百回も射撃を繰り返すうちに、意識的な思考を伴わずに撃てるようになる。発砲率は朝鮮戦争で50〜55%、ベトナム戦争で95%前後に上がりました」
『相手の話、聞こうよ(2017年4月18日付朝日新聞)』
小泉純一郎さんには2002年2月の予算委で鈴木宗男氏の疑惑を追求した時、「よく調べているなと感心した」と答弁いただきました(笑)。敵ながらあっぱれと。違う立場でも対話は成り立ちます。
ところが安倍さんは、質問にまともに答えないことが多い。最近も、今年2月の予算委で、〜。
指摘された事実を無視し、ひらすた思い込んでいることを繰り返す面もあります。
次に私が聞いたのは、銀行からの自民党の借金額でした。私が「実質無担保で100億以上」という実態を暴露すると、首相は「(党の)経理局で詳細にやっております」と逃げました。国民の目に癒着の構造が明らかになったと思います。
不安げな注目。ありがとうございます。何でこんなジャージーみたいな着物の人がここに、とお思いでしょう。
ーーー相手を知るってどういうことか。たとえば、自分が思っていることを言われると、気持ちがほぐれるものです。「不安でしょう」と気遣われると、「こいつ、わかってんな」と。どうです?
『メディア真っ二つ?(7月13日付 朝日新聞オピニオン面)』
大石裕・慶応大教授(ジャーナリズム論)
読売新聞の前川・前文部科学事務次官の「出会い系バー」を巡る報道は、政権とメディアが保つべき一線を超えた、大きな問題を持つものでした。
一方で記者側は書きぶりを工夫するなどして一定の緊張関係を維持してきた。
メディアの価値観と論調は今なお、互いに似通っている。分かりやすい例が沖縄の米軍基地を巡る問題でしょう。
読売新聞が「政府寄り」で朝日新聞が「沖縄寄り」、という大きな違いがあるイメージがある。ただ記事を分析すると、ともに沖縄の負担軽減を主張しながらも、日米関係の重視という点は共通し、基地問題解決についても具体論はない。負担軽減に向けて政府は「丁寧に進めるべきだ」と言うか、「寄り添って進めるべきだ」と言うか、その程度の違いしかありません。
新聞記者は社会から独立して権力を監視していると自負しますが、実際には読者の平均的な意見から大きく離れられていない。「総中流幻想」による同質性の高い社会の内部で対立しているにすぎない。
『不便は手間だが役に立つ』
川上浩司(京都大学デザイン学ユニット特定教授)
10年ほど、不便がもたらす便益「不便益」を研究しています。昔は良かったという懐古趣味でも、何でも不便にすればいいという考え方でもありません。考察から得た結論は「主体性が持てる」「工夫ができる」「発見できる」「対象系を理解できる」「俺だけ感がある」「安心できる・信頼できる」「能力低下を防ぐ」「上達できる」。
省力化や手間いらずの商品やサービスは、提供する側の考えの押し付けとも言える。
全自動洗濯機は自分好みの洗い方をしようとすると、急に操作が煩雑になる。
世の中の多くの人は、便利さのかげで失っているものの大きさを、薄々は感じていると思います。「利便性が高いもの(こと)は、いいもの(こと)だ」という考えを、そろそろ見直しませんか。
「不便は手間だが役に立つ」のですから。
『暴走する忖度(7月7日付 朝日新聞朝刊オピニオン)』
金田一先生、この春列島を一世風靡した「忖度」についてかく語りき。
深い。言語学者としてあまりに政治家の言葉についての批評性がある。
このテーマでこういう人選ができるのもさすが編集者といった脱帽感。
朝日新聞はオピニオン面がほんとに面白いんですよね〜。。
下の人がやるだけではだめで、上の人がそれをきちんと感じ取ることで、忖度が成り立つわけです。
日本語は状況依存型の言語です。同じ言葉でも、使われている状況や文脈で意味が変わる。「お水、いいですか」だけでは、「水をください」なのか「水はもう必要ないですか」なのか分からない。誰が誰に対して、どんな状況で言っているかがわかって、初めて意味が明確になります。
言葉にあいまいな部分が大きいので、言語化されたな状況や文脈を察するという小さな「忖度」を日常的にやっているわけです。
自然言語はあいまいにできているのが普通です。それが成熟した言語なんですね。
いまの政治の言葉づかいは、安倍晋三さんが典型ですが、わかりやすすぎる。あの人、国会でヤジを飛ばしますよね。ヤジというのはすごくわかりやすい。蓮舫さんも、わかりやすい言葉しか使わないから、すぐ口喧嘩みたいになってしまう。
わかりやすい言葉で政治が語られるのには用心しなけきゃいけない。トランプさんの言葉はとってもわかりやすいけれど、すごく危なっかしいでしょう。
本来、政治家の言葉というのは、解決が難しい問題にかかわるから、あいまいになるはずなんです。安倍さんのような単純な言葉だと、白か黒かになってしまって、複雑な利害が調整できない。
そう。だから政治家が妙にわかりやすい易しい言葉で説明を始めたら疑わなきゃならない。「こいつ、私たちを騙してるんじゃないか?」って。一般の人が、それに気付くのって至難。そこで大切なのは、客観的態度と批判的まなざし。
やっぱりそれってメディアでしょ。
いまの政治の言葉は幼稚になっている。政治家は分かりやすい言葉だけで語り、マスコミはわかりやすい言葉だけを伝え、国民もわかりやすい言葉しか受けつけない。
もう一度読通してからふと立ち止まってみる。
日常生活のなかで相手の理解を重視するがあまりに、「分かりやすさ」や「端的さ」を過度に追求し過ぎて、損なっている部分がないだろうか。自分に問いかけてみる。
『知性の顛覆 日本人がバカになってしまう構造(橋本治)』
7/9付朝日新聞朝刊「著者に会いたい」での新作新書、著者インタビューで橋本治。
<「自分のアタマで考えたいことを考えるためにするのが勉強だ」ということが分かると、そこで初めて勉強が好きになった>
反知性主義を読み解いていくなかでたどり着いたのは「不機嫌」「ムカつく」という感情だ。ムカつく人たちに納得してもらう言説を生み出さないと<知性は顛覆したままで終わり>だと指摘した。
一方、「知性」と同居していたはずの「モラル」が失われていったとみる。
テーマは「父権性の顛覆」だ。
例えば、自民党と小池百合子小池百合子・東京都知事との関係を、「夫」と夫に反発した「妻」と読み解く。
「自民党は基本的にオヤジ政党だから父権性の権化。『それって嫌よね』という家庭内離婚みたいなもの」。小池氏の人気の背景には、「そうよね」という中高年女性たちの共感があるとみる。
この人の言葉には、個人的な葛藤と思考の後に獲得したような知性がある。
本というメディアは、そういうものと出会えるから(著者が出し惜しみしていなければ)魅力があるんだよねやっぱり。