『カレー勝負(美味しんぼ24巻)』
カレーショップの主・栃川。
「この店のカレーが本物だと言ったからには答えてもらおう。まず第一にカレーとは何か?」
ターメリックとクミン(あと胡椒と唐辛子)があればなんとなくカレーらしくなる。
究極のカレーはマッドクラブ、鰹節。焼いた蟹の風味とカレーソースの旨さが互いに引き立て合う。
至高のカレーは豚バラ肉のカレーにアムチュール(インドの梅干し。マンゴーを干したもの)を使い、豚バラの表面にはチャックマサラを刷り込む。カレールーから感じるスパイスの香り。豚肉を食べたときに感じるスパイスの香りによって香りの多重構造を狙ったカレー。
さて、おわかり頂けただろうか。
生の独立したスパイス群。
そのスパイス群が収まりよく調和するように整えるのがガラン・マサラ。
そして肉の下味のチャック・マサラ。
この至高のカレーの香りの構造は、三層になっているのだ。
カレーの神髄はスパイスだ。いかにスパイスと材料を取り合わせるか、それがカレーの神髄だ。
「蟹のカレーが大衆受けしたに過ぎん」
『男はつらいよ 32 〜口笛を吹く寅次郎 〜』(1980年)
83年作。舞台となる備中は高梁(岡山県)は、さくらの夫・博の生まれ故郷。
マドンナは竹下景子(エリートと離婚して出戻ったお寺の娘、朋子役)。
当時、お嫁さんにしたい女優ナンバー1だった竹下景子。
と、当時の彼女の出演作などを検索していると謎のタイトル『ソープ嬢モモ子シリーズ』というのを発見した。なんて時代だ。。
「私、お寺の前で育ちました。
法事の真似事なら出来ます」
こういう軽口こそ、寅の真骨頂。
「お母さん、あの人。寅おじさんだよ」と満男が云う。
とらやのお茶の間のだんらんはいくつもの恋を、迷える人間達を救ってきた。
「このやろう、雨の晩に若い女、手篭めにしやがってよ〜」
若き日の杉田かおると中井貴一(上京したカメラマン)の色恋があったり。
「ねえ、柴又の駅まで送って」
『父として考える(東浩紀・宮台真司) 』
父になってみて再読。
父なる実感、って部分の吐露は相対的に少ないように思われた。
見田宗介氏が言うには、女たちが保守化したのではなく、仕事も子育ても両方選べるようになった段階で、あらためて比べた上で子育てを選ぶようになった以上、子育てしか選べなかった状況とは意味がちがうのだ、と。
わざとスクリーニングしているんです。
常見氏が主張しておられるように、企業が求める資質のあるひとたちにとっては、完全に売り手市場なんです。
たとえば、僕が娘を叱ります。すると、僕がいないところで、娘は他の子に対して同じように「叱って」いるんですね。妻から聞いて、なるほどと思いました。僕が、「そんなことやるんだったら、もう遊ばないよ」と叱ります。すると、もう翌日から、他の子に「そんなことするんだったら、もう遊ばなーい」とか言いまくってる(笑)。
つまり僕のコミュニケーションの形式を学んでいるわけです。
だから説教したり、アドバイスしたりするときは、その内容ではなく、むしろ、どういう形式をとっているかのほうがはるかに重要かもしれないんです。
妻には、「遊ばないよ」も含めて、ネガティブサンクション(制裁の言葉)を提示するときには気をつけてほしいと言われています。
上野さんは日本ではフェミニズムの代表をみなされていますが、彼女独特の脅迫観念的な個人主義は、フェミニズム本来のものかどうか疑問です。
宇野のロジックは全部ナルシシズムの否定でできている。
「おひとりさまの哲学」はナルシシズムの否定、甘えの否定なんです。自尊心の裏にある他人への依存を暴き、悪だと指摘する。
『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か(平田オリザ)』
4年前くらいに読んでいて本棚にささっていたものを再読。
こんなにも太字ばかりの本を、まだ取り扱っていなかったなんて。。。
無能。。
コミュニケーションにおける無駄(ノイズ)の大切さや、学校の授業はメチャクチャに教えた方がいい」といった
まさに、メチャクチャに、ノイズを含んで、この本は構成されている。
(まえがき)
彼の家では、典型的なダブルバインドのコミュニケーションが頻繁に行われていて、「まあ勉強なんてできなくっても、身体だけ丈夫ならいいんだから」と言われながら、通信簿を持って行くと、「何だ、この成績は!」と突然怒られるような環境で育ったのだ。
ー〜ー〜ー
私が公教育の世界に入って一番驚いたのも、実はこの点だった。教師が教えすぎるのだ。もうすぐ子どもたちが、すばらしいアイデアにたどり着こうとする、その直前で、教師が結論を出してしまう。おそらくその方が、教師としては教えて気になれるし、体面も保てるからだろう。
「冗長率」という言葉がある。
たとえばモロッコという国はワールドカップの開催国に立候補するほどの立派な中進国だが、中学校以上の授業は基本的にフランス語で行われていると聞く。
こういった環境では、なかなか民主主義は育たない。言語の習得が、社会的な階層を、そのまま決定づけてしまうから。
日本語には対等な関係で褒める語彙が極端に少ない。上に向かって尊敬の念を示すか、下に向かって褒めてすかわすような言葉は豊富にあっても、対等な関係の褒め言葉があまり見つからないのだ。
欧米の言語ならば、この手の言葉には、まさに枚挙にいとまがない。wonderful,marvelous,amazing,great,lovely,splended・・・。
言語は保守的で、変化を好まない。
ー〜ー〜
言語的な権力を無自覚に独占している年長の男性が、まず率先してこの権力を手放さなければならない。
だが、言葉の観点から言えば、「対話」の言葉の欠如がファシズムを招いたのではないかと想像することはできないだろうか。
コンテクスト=その人がどんなつもりでその言葉を使っているかの全体像。
みなさんに小学校一年生くらいの子どもがいるとしよう。その子が、学校から嬉しそうに走って帰ってきて、
「お母さん、お母さん、今日、ぼく、宿題やっていかなかったんだけど、田中先生、全然怒らんなかったんだよ」
と言ったとする。私は学生たちに問いかける。
「さあ、皆さんはいいお母さん、いいお父さんです。何と答えますか?」
ー〜ー〜ー
おそらくその子が、走って帰ってきてまで伝えたかったのは、
「田中先生は優しい」
「田中先生が大好き」
という気持ちだろう。そうでなければ、「嬉しそうに走って帰ってきた」という理由を説明できないから。
一般に、子どもに接するときの優れたコミュニケーションとは、子どものコンテクストを受け止めて、さらに「受け止めているよ」ということをシグナルとして返してあげることが肝要だと言われている。
なぜなら、子どもに代表される社会的弱者は、他者に対して、コンテクストでしか物事を伝えられないからだ。
『北の国から2002 “遺言”(後編)』
まあなんというか、完結編ということもありタイトルも五郎の「遺言」とあることから、過去を振り返るイメージですな。
手間返し といって、村のおっさん達が協力して家を建ててる。
純は草太兄の牧場を潰して、富良野におられんようになっていた。
五郎は、なぜか手間返しに巻き込まれていた 初対面のおっさんを家に泊めていた。
羅臼でトド採ってるおっさん(唐十郎)だ。今回の主人公ともいえるお騒がせのおっさん。
息子は短髪にした岸谷五朗。悪い過去がありそうだ。
「もう逃げんの嫌なんだよ」
(元ダンナと直談判で話をつけに行こうと奮い立った純に対して鉄砲を手に乗り込んだ結)
「鉄砲はマズイよ」
「結ちゃん、キレる人?......やっぱ鉄砲は車に置いていこ」
(結局、純が許しを請うてる間、ダンナに向けて銃を構える結)
結ちゃんが朝やってきたときの五郎のリアクション。
純たちが大人になった後に、ちょいちょい出て来るコメディシーンは、登場人物も観ている方も(われわれのことだ)、皆が歳をとってきた余裕か。歳をとった人間の、可愛いらしさとかおちゃめさとかだな。
トド撃ちに行って遭難したオヤジを迎え火で待つ、岸谷五朗と純。
「あの晩は、ほんとにぶったまげたぜ」
「お前に譲る」
元妻とつき合ってる男と、元妻を今の男に譲ったダンナが冬の羅臼の岸辺でかがり火焚いて話してるってシチュエーション。
人生には時として、こういう散文であっても設定の難しいシーンが、ままある。
これこそ宝よ、北の国からの。
皆が諦めかけた明け方、流氷の上を歩いて帰って来た。
♩遠き山に陽は落ちて〜
(子を連れて、正吉の元に行く蛍を見送る駅で)
僕はそのお父さんに、感動していた。
父さん、あなたは素敵です。
あなたのそういうみっともないところ。
昔の僕なら軽蔑していたでしょう。
でも、いまは人の目も気にせず、ただひたすら家族を愛すること。
思えば父さんのそういう生き方が、ぼくらをここまで育ててくれたんだと思います。
そのことに、いまようやくぼくらは気付きはじめてるんだと思います。
(長い語り、遺言の中で)
金なんか望むな。幸せだけを見ろ。
ここにはなんもないが自然だけはある。
自然はお前らを死なない程度には充分食わしてくれる。
自然から頂戴しろ。
そして謙虚に、つつましく生きろ。
それが父さんのお前らへの遺言だ。
『コンプレックス文化論(武田砂鉄)』
砂鉄氏の切れ味するどい舌鋒はあまり発揮されず、個々のコンプレックスに関連づけられるタレント系エピソードもやや貧弱だ。
意外にも本人の関心とは、遠いところの企画だったのではないか。
働かざるもの食うべからず、との形容を好みのは曾野綾子だが、その手の話者が、働いていないものを社会不適合者と急いで定めて苦言を呈する姿勢がとにかく嫌いだ。「社会システムに迎合する者が正しい者なのだ」という前提を活性化させようとする表現者を信じたくない。
糾弾するつもりはない、でもみんなにそうだよなって思ってもらいたい
それこそ『情熱大陸』にこの手のジャンルの人間が出ると、「大きい何かではなく、最後には自分を信じる」という方向性でエンディングに急かされる。表現者になる、とはつまり、個でいるということ。課長代理に昇進して今夜はささやかだけどすき焼きよ、と食卓で喜びあう光景から遠ざかるということだ。
「僕は、僕の母の胎内にいるとき、お臍の穴から、僕の生まれる家の中を、覗いてみて、『こいつは、いけねえ』と、思った。頭の禿げかかった親爺と、それに相当した婆とが、薄暗くて、小汚く、恐ろしく小さい家の中に、坐っているのである」(直木三十五「貧乏一期、二期、三期 わが落魂の記」)
<<橋下徹>>
要するに背骨のない軟体動物のようなお調子言論なのだが、
<<篠原かをり>>
自分のアイデンティティの一番が「親が金持ち」になってしまう。
『少女消失』というビデオを見て驚愕したと記している。地面に並べられたいくつもの制服にアルコールがぶっかけられ、1着づつ焼かれていく。
届かなかったのものへの想念がセーラー服として表出している
『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝(栗原康)』
口ではわかったおいっておきながら、速攻でそれを破ってしまう。
▼糸島郡今宿村(現 福岡市西区)
▼上野高等女学校(現 上野学園)へ
▼新任の英語教師 辻潤
遭いたい。行きたい。僕の、この燃えるような熱情を、あなたに浴びせかけたい。そしてまた、あなたの熱情の中にも溶けてみたい。僕はもう、本当に、あなたに占領されてしまったのだ。(伊藤野枝宛・一九一六年)
▼葉山の日蔭茶屋事件 神近市子
それなのに、これからというときに、こいつらは恋愛ごときで運動をこわしやがった。と他の社会主義社たちからの反感を買っていた大杉ら。
不倫上等、淫乱好し。
公序良俗の番犬どもめ。
「前置きは省きます。私は一無政府主義社です。」という書き出しの、後藤新平宛の手紙。
あなたは一国の為政者でも、私よりは弱い。
▼大阪のアナキストたちの間で流行っていた借家人運動。家賃を払わずに居直る。
▼どこからともなく大杉がヤギを連れて来たので
▼野枝が本を読むときは、大杉が魔子を連れ出してヤギの背に乗せる
▼長女魔子、次女のエマ(妹の養子に)、三女もエマ、四女ルイズ、長男ネストル。
▼蒙昧野蛮の時代
私たちはまた、売淫という、もっと露骨に女の体が経済的物品であることの証拠になることを知っています。多くの上中流の知識あり教養ある婦人たちは、それを賎しみ憐れみしていますが、しかし多くの良人を持っている婦人たちとの差異は本当に五十歩百歩なのではありませんか。
(中産階級の婦人たちにたいし、おまえらもおなじなんだ、男の性的奴隷じゃないか)
そして、そういうかけがえのない相手とであった自分の身体は、これまでの自分とはぜんぜんちがう。おなじ手足をしているかもしれないが、あきらかにその力が増している。まちがいない、生の拡充だ。セックスは、やさしさの肉体的表現である。
愛しあって夢中になっているときには、お互いにできるだけ相手の越権を許して喜んでいます。けれども、次第にそれが許せなくなってきて、結婚生活が暗くなってきます。もしも大して暗くならないならば大抵の場合に、その一方のどっちかが自分の生活を失ってしまっているのですね。
お互いの正直な働きの連絡が、ある完全な働きになって現れてくるのです。
大杉だったら、おなじことを「自由連合」という、ちょっとかたい言葉で説明するだろう。労働運動の全国組織みたいなものをつくりにしても、そこに支配関係をつくらせてはいけない、組合規模の大小をとわず、すべての組合の個性をいかした連絡組織をつくろうよと。
が、その恋に友情の実が結べば、恋は常に生き返ります。
『ドキュメンタリーは嘘をつく(森達也)』
言い換えれば報道は、とても危なっかしいバランスの上に立っている。
自らが中立で公正であるとの強い思い込みは、自らが正義の側に立つとの思い込みにあっさりと短絡する。
自らが正義であると思い込んだメディアは暴走する。
主張は明快だし、歯切れも良い。その気になれば作品全体をひとつのスローガンに置き換えるくらいに、曖昧さや複雑さはきれいさっぱり削ぎ落とされている。
『ボウリング・フォー・コロンバイン』は稀に見る傑作だ。論文としては優れている。でも(くりかえすけれど)、一個のドキュメンタリー作品としては、凡庸だ。なぜならば、イズムや主張に従属しているからだ。
銃を手放す覚悟を雄弁に語るのなら、そこに付随するマイケル・ムーアの不安や葛藤を僕は知りたい。雄々しいスローガンだけでなく、吐息や逡巡も垣間みたい。なぜなら、そこにこそ、等身大の「意思」が現れているはずだから。
皆キャメラの持つ加害性を自覚して、観察者ではなく当事者として作品を発表し続けている。
ドキュメンタリーというジャンルは徹頭徹尾、表現行為そのものなのだ。
ドキュメンタリーが描くのは、異物(キャメラ)が関与することによって変質したメタ状況なのだ。
(テクノロジーの進化は、カメラと認識させない「現実の記録」も可能にするわな。つまり、状況としては「盗撮」にちかいわけだけれども)
9・11同時多発テロ直後、歓喜するパレスチナの人々の映像が世界中に配信された。
実はあの映像にはまだ続きがあってさ、キャメラが引いてゆくと、喜ぶ人たちの周りには多くの野次馬たちが集まっていて、不思議そうに撮影風景を眺めているんだよ。おまけに画面の端にはディレクターらしき姿も映ってた。
被写体はキャメラの前で作り話を演じる。そして嘘が多くなればなるほど、作り話は艶を増す。
→つまり、必死に自分を演ずることだって日常的にしているはずだ。自分はこうありたい、こういう風に生きてきた(はずの)自分は、こんな選択をするはずだ。こんなことをするはずだ。
最後に情緒に溺れた。
この「後ろめたさ」や「無駄な煩悶」というネガティブな要素が、実はとても重要なのだと僕は考える。
わかりやすさばかりが優先された情報のパッケージ化をマスメディアが一様に目指す状況だからこそ、曖昧な領域に焦点を当てるドキュメンタリーの補完作用は、今後ますます重要な意味を持つ。
『華氏911』は、確かにメディアを補完している。でも僕に言わせれば、隙間を埋めながら、善悪の構図をひっくり返しているだけだ。二元論はそのままだ。だから構造を変えられない。作品というよりも政治的アクチュアリティなのだ。〜ドキュメンタリーが本来持つ豊穣さに、決定的に欠けている。
編集には必ず意図がある。
関係性を描くことがドキュメンタリーなのだ。
「脳障害でも、こうして頑張る人を伝えたかった」とでも言うのだろうか。確かにそのジャンルはある。否定はしない。でもそれは、僕の定義ではドキュメンタリーじゃない。情報だ。
撮るという作為に対して自覚がないままに、事実という皮相的なものに従属したからだ。
エゴを全面的に工程するしかない。
大衆というのは、分かりやすさを求めている。認識を変えたくない。