『DEAD POOL』
「お前らまだいたのか。さっさと行けよ。何か社会の役に立つことしろ」
「じゃあ、シコるから部屋から出てって」
『It(2017)』
『It(2017)』(tront ~tokyoHaneda)
・大雨の日に側溝から、マジインパクトあるピエロが話し掛けてきた。
・小児の側溝への連れ去りシーンマジ怖ええ。腕喰われて引っ張られたジョージー同様、観てるものもガッっとこのピエロのインパクトに掴まれる。
・アメリカのハードないじめ社会に生きる子ども達
・ピエロの動きが怖い。襲い方がえげつなく怖い。迫力ピエロが揺れながら高速で近づいてくる。
「わたしが行く。いくじなし!」
・子供にしか見えないホラー体験!ホラーな現場!(トトロの逆やん)
「このうるさい女を仲間に入れたのは誰だ!?」
「やっつけるには心を一つにしないと!それしか生き残る道はない!」
→やっぱりそういうのが重要なのである。
・後半、ピエロは街の悪童を狂気殺人へと駆りたてる。
・衝撃の事実。子供たちの恐怖がピエロとして実態化するのだあ!!!
・少年たちが恐怖に打ち克つ成長譚でした
文芸時評:磯崎憲一郎(朝日新聞 5/30、6/27)
文体とは何か
「うつくしい文章とか気の利いた表現といったことではなく、日本語の並べ方そのもの」
登場人物の人生観を端的に言い表す台詞でもなく、ただひたすらに、目の前の一文の、語の選択と配置、という問題なのだ。
作中の所々で、書き手の意図を超えて一つの言葉が次の言葉を生む、小説の自己生成が起こっているようにも感じる。
かつては少ないながらも海外小説や文庫の古典が並べられていた売り場を、売上ランキング上位の小説とダイエット本と付録付き女性誌に明け渡してしまった結果、街の書店の地位はコンビニとネット通販と情報サイトに取って代わられた、というのが本当の所ではないか?つまり「文化拠点」が衰退しているのではなく、「文化拠点」である事を自ら放棄した必然として、書店は減少の一途を辿っているように見えて仕方がない。
寄稿:『理解できぬ世界は悪か(角田光代)』
会社サボって、「万引き家族」観れてよかった。
朝日で2回(6/8、6/25)、読売で1回(6/7)、大きく紙面を割かれた。
各記事を並べたいと思う。
幼児を虐待する親は極悪人だと思っているし、万引き常習犯は病んでいるのだろうと思っている。自分が彼らと同じ人間だと思うことは怖い。だから線引きせずにはいられない。
よく理解できないこと、理解したくないことに線引きをしカテゴライズするということは、ときに、ものごとを一面化させる。その一面の裏に、側面に、奥に何があるのか、考えることを放棄させる。善だけでできている善人はおらず、悪だけを抱えた悪人もいないということを、忘れさせる。善い人が起こした「理解できない」事件があれば、私たちは「ほら悪いやつだった」と糾弾できる。
是枝監督は以前から、現代のメディアが陥りがちな「分かりやすさ至上主義」に警鐘を鳴らしていた。彼の映画も、説明しすぎないことが特徴になっている。
「だって、世の中って分かりやすくないよね。分かりやすく語ることが重要ではない。むしと、一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えていかねばならない。僕はそう思っています」
あたし楽しかったからさ、こんなんじゃお釣りがくるくらいだよ。
あんたマエがあるんだから、5年じゃきかないよ。(作中より)
父ちゃんさ、おじさんに戻るよ。
(作中より)