ここがパンチライン!(本とか映画、そんでときどき新聞の)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『日本語が亡びるとき -英語の世紀の中で(水村美苗)』

成田ーホノルル間で読む。
太字で書き留めることが、実に多い。

国の言葉を考えるとき、この国のユニークさと近代以降の激動を考え合わせれば、ドラマティックにならないはずがない、そんなことを教えてくれる稀有な現代日本語文化論。

 

アイオワ大学は全米で初めて設立された創作学科が有名で、その創作学科の存在が、この町をたんなる田舎の大学町とはちがう、きわめて文学的な町にしているのである。

 

中国のある小説では、主人公の孫がニューヨークにたどる着いてからを中心に展開され、資本主義の波にどうしても乗れなかったのが、ある日、コカコーラを腕にこっそりと輸血するとすべてがうまくいくというファンタジーノベル

 

第二次世界大戦直後、アメリカのGDPは世界の半分を占めたという

 

世界でのフランス語の地位が凋落するのを防ぐため、ケベック、ハイチ、ヴェトナム、モロッコ、アルジェリアチュニジアニジェールセネガルマダガスカルなど世界中に散らばる元フランス植民地に出向いては

 

北アメリカの中心部を占めていたフランスの領土をアメリカに売ってしまった。1エーカー三セントという値段です。「ルイジアナ・パーチェス」

 

よく耕かされた精神

 

認識というものはしばしば途方もなく、遅れて訪れる。

きっかけとなった出来事や、会話、あるいは光景などから、何日、何年ー場合によっては何十年もたってから、ようやく人の心を訪れる。

 

そして、そのとき人は、自分がほんとうは常にその<真理>を知っていたことさえも知るのである。

 

戦後民主主義教育というのは、一にも二にも平等主義であった。

「職業に貴賤はない」などという表現は、「働くという行為そのものの尊さ」を指す表現としてならわかるが、真に受けるように教育されてしまえば、まさに「職業に貴賤」がある現実に眼を閉じさせる。平等主義は、さまざまなところで、私に現実を見る眼を閉じさせた。

 私は、大人になっても長い間、平等主義にしか考えられなかったのであった。

 

非西洋語で近代に入ってから書かれた文学とは、いったいぜんたいどんなもんだろう

 

 

すべての<国民文学>が「主要な文学」であるわけではない。

 

 

この世には限られた公平さしかない。

 

 

そもそも日本文学が世界に知れたのは、日本の真珠湾攻撃を契機に、アメリカ軍が敵国を知るため、日本語ができる人材を短期間で養成する必要にかられたのが一番大きな要因である。

 

 いかに英訳が出版されたのが日本文学にとって重要だったかがわかる。

 

プルーストが『失われた時を求めて』という自伝風の小説を書いた..

主人公マルセルといえば、もういい歳をした男だというのに、昔のことばかりめそめそと思い返している。ことに思い返すのは、子供のころ、夜、お母さんが、おめかしをして客人を迎えるまえ、自分の寝室を訪れ、ちゃんとおやすみのキスをしてくれるかどうか、ベッドに横たわりながら、いかに不安の中に待っていたかである。

 

『三四郎』は「登場人物が、自分の国のみならず、自分もまたその一人である国民のありかたを、それこそ「世界的」な視点から見て批判し、かつ憂える」という優れた国民文学的な小説

 

 

中国の銀貨が欲しくて、インドで栽培させた(西欧には輸出しようとは思わない)アヘンを中国に密輸させた

 

五章 日本近代文学の奇跡

日本にははやばやと<国語>が成立するのを可能にした歴史的な条件があった

1. 近代以前の<書き言葉>が<現地語>としては高い位置をしめ、成熟していたこと

2. 近代以前の日本にベネディクトアンダーソンがいう「印刷資本主義」があったこと

3. 近代に入って、西洋列強の植民地にならずに済んだこと

この3つによって可能になった「日本語で学問をすることが出来る<大学>が存在するようになったこと」

 

日本近代小説の黎明期、翻案・翻訳・創作という三つの行為は繋がっていた

 

本は常に、<文学価値>と<流通価値>がある

 

科学は、「ヒトがいかに生まれてきたか」を解明しても、「人はいかに生きるべきか」という問いに答えを与えてはくれない

 

 

日本語を読める外国人のあいだでの漱石の評価は高い。

日本語を読めない外国人の間では漱石はまったく評価されていない。

ジョンアップアダイクが、英語で読んでいる限り、漱石がなぜ日本で偉大な作家だとされているのかさっぱりわからないと書いていたのを読んだときの怒りと悲しみ。

 

グローバルな<文化商品>、ハリウッド映画産業がその代表であるが、制作費が巨大な映画ほど、輸出用にわざと台詞を少なく抑え、捉えにくい個別的な<現実>を描こうとする代わりに、人類に共通する神話的世界を描こうとしている。

 

 

誰にでもわかることば(表現)を載せるという馬鹿げたことをするようになったのである。

 

教育とは家庭環境が与えないものを与えることである。

 

 

ふたたび、繰り返すが、日本の国語教育は日本近代文学(国語が成立してからの作品群)を読み継がせるのに主眼を置くべきである。

 

 

年暮れてわかよふけゆく風の音にこころのうちのすさまじきかな

 

 

 

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