『007 spector』
サムメンデス・2作目。ダニエルの最後作かと騒がれている。
公開週にコレド室町で観る。
予告編
冒頭は、メキシコシティ、極彩色のお盆・死者の日のお祭りシーン。
広場上級でのヘリコプター内での取っ組み合いはヘリもカメラも揺れる揺れる。どうやって撮ってるんだと特撮か生撮りかの疑いが往復する。間違いなく、ここがアクションの見せ場というのがわかった。
メキシコ大騒動はボンドの単独行動だった(正確には前Mの遺言によるミッション)。
新任M(レイフ・ファインズ)とは、最初からソリが悪そうな展開(前作あんなに信頼醸成されてたのに)に、今作の不穏な運びが予想される。
オープニングタイトルは本国シンガーsam smith(Writing`s On The Wall)、spectorスペクターの闇像コンセプト。ほんとの愛がテーマってことっすね。
SKYFALLのAdelleのときほどの洗練性やカッコ良さはなかった。
マフィアの未亡人モニカ・ベルッチ(御年50歳!)との会って間もない吐息前戯(毎度恒例ボンドの特殊能力)がハンパじゃない。上半身だけのカメラワークなのにほとんどエロビデオだ。
それとちょうど対比して、レア・セドゥ演じるマドレーヌの最初のお固さは際立つ。
男として受け入れないどころか、「彼女を守る」るために来たというボンドのその立場さえも認めていない。「父の死の真相を知りたい」一心で、ボンドに着いて行くことを決める。人はやはり、そうまでして真相というものを知りたいものなのか。
砂漠地帯を突き進む夜間列車にて、おめかしして食堂車輛で食事していたとろこを殺し屋Mr.ヒンクスが乱入。
激闘の後、「この後どうする?」から、もう少しも我慢出来ない様子で互いに服脱がし合うあのシーン。これやってみたいわー。
砂漠のど真ん中にある、洗練された無機質なアジト。
お迎えの車に乗り、正面から乗り込んだ2人に客室に通されたりするところは臨場感を醸し出す。
スペクターの首領はフランツ・オーベルハウザー。ボンドの育ての親の実子。
父の愛を実子である自分よりも受けたボンドに嫉妬、とかクソくらだねー動機を説明される。(でたでた幼少期のジェラシー。いや実際そういうところで個人の感情評価が作られるっつうのはわかるけれどもね、こうやって説明されると実にくだらねーって映るわけですよ。もしそうなら、やっぱり物語の中でその嫉妬を描かないとダメだよね)
(に対してボンド、)
「君を殺しにきた」
この軽口。この軽口がいつだって聞きたいんですよ私も。イギリス人同様。
完璧に危機的状況の中で、歯科手術台の上でマシンに効率的に記憶神経と目ん玉をドリル挿入されるところを脱出成功する。
いま、世界を舞台に活躍する悪漢テロ集団(不正凶悪組織)において、自らのケイパビリティは何だろうか。007を過去のシリーズから観て行くとわかりやすい。
米ソ冷戦時代から、人類を繰り返し滅ぼしかねない核兵器の危機的状況が描かれ、映画の物語に臨場感を添えた、やがて宇宙開発とそれに絡めた超先端技術。金と政治、闇組織と地下ネットワーク、ITネットワークは必然的に繋がり合っていて、新たな利権や国家的な対立とテロリズムを連想させた。
そして今回、スペクターの首領で集約されているもの、英国政府を通じて世界の超機密会議で獲得が標榜されていた物は、「ナインアイズ(超国家的機密情報)」、つまりは手に入らない情報がなくなるという意味で”全ての情報”だった)だった。
つまり、悪が働くモチベーションというものが、より世界支配的、社会を全掌握するマテリアルがより上位概念に移行しており、情報そのものが力であり富であるということが映画に酔って証明されているのだ。
なるほど、そりゃそうだ。いまの世の中、情報だよね、と思うだろう。
その通り、現在当たり前のことが当たり前に映画に描かれるようになってきたこと。
それが新鮮であり、隔世の感を感じざるを得ないのである。
MI6の閉鎖が進行するも内務省系ボスのcとスペクター一味が通じてる構造、それを察知してナインアイズの発動ギリギリで阻止するMたちチームMI6。オーベルハウザーをヘリから引きずり降ろしてロンドン都心部の橋上で取っ捕まえた(しかし撃たないんだ、もう堅気になるんだからよお)ときには、随分現代お捕らえ劇になったもんだと痛感。
後日、修理が終わったアストンマーチン(前作skyfallで大破)を取りにきたボンド。
場を去る助手席にはマドレーヌが。
まあこれでダニエル版は終わる仕様だけれど、また戻ってきてもあり得るクロージング。そう思えたあね。