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ここがパンチライン!(本とか映画、そんでときどき新聞の)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『成熟と喪失(江藤 淳)』

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「第一次戦後派」は「父」との関係で自己を規定し、不良中学生たる「第三の新人」は「母」への密着に頼って書いたのである。



それは「天皇制」とか「民主主義」とかいうような公式の価値からすれば無に等しいようなものである。それは母親のエプロンのすえたような洗濯くさい匂い、父がとにかく父としてどこかにいるという安心感、といったようなものの堆積にすぎない。

 


「家」とは主婦にとって単なる物質ではなくてその精神の延長であり、いわば彼女の存在そのものである。

 


私がほとんど本能的に感じるのは、時子の気まぐれや嘲笑に耐えて「優しい声」を出したりしてる俊介の発散するあの惨めな淋しさである。それはほとんど捨児の淋しさに似ている。



夫婦という倫理的関係であるよりさきに、「母子」という自然的関係を回復しようという欲求で結ばれているからにほかならない。

 


抱擁家族』の独創性が、なによりもまず現代の日本の夫婦のあいだに隠されている倫理的関係と自然的関係の奇妙なねじれ目に、思いもよらぬ角度から照明をあてているところにあることはいうまでもない。

 


人は役割を喪失して生きつづけることはできない。主婦の「役割」を自分から破壊して「女」になってしまった時子が、今度は恋人の「役割」をも拒否されたとすれば、彼女はすでに何者でもないことになる。それは社会的な死、あるいは彼女の内部の秩序の崩壊を意味するからである。

 

上野千鶴子

娘は「みじめな父」に同一化する必要はないが、息子のようにそのみじめさから自力で抜け出す能力も機会も与えられていない。自分を待ち受けている人生が、しょせん思うようにならない男にあなたまかせの舵を預けて、「いらだつ母」のようになることだと観念するせいで、「不機嫌な娘」になる。 

 

批評家の「読み」によって、時代の金字塔になる作品がある。小島は江藤という読み手を持つ幸運によって、60年代を代表する作家として長く記憶にとどめられることになった。

 

自分の中に女房をとりこんでそれをかわいがるということは、逆にいうと、自分しかかわいがらないということでしょう。

「正体ははっきり」している。そこには妻という他者がいない。それこそ江藤が繰り返し指摘している、「妻」に「母」を同化させようとする日本の男の幼児性、、、

 

吉行作品を指して、

主人公は「母性を欠いた女」つまり「娼婦」として、あるいは娼婦のようにしてしか女性と交渉を持てないが、それは「母の拒絶」「女の裏切り」に会ってしまった男の、ありふれた「女嫌い」の物語に過ぎない。

 

男の描いたシナリオにもう共犯的に共演してくれる女性がいなくなったとき、女は不気味な他者に変貌する。

 

近代主義をふかく内面化したボーヴォワールのような女性にとっては、女を母性に縛りつける妊娠や出産は「牝の屈辱」(『第二の性』新潮社)にほかならなかった。

 

江藤によれば たとえば漱石文学の主題、

「内にも外にも『父』を喪った者がどうして生きつづけられるかという問題」

 

女たちが受苦することを引き受けず、みずからの欲望を臆面もなく追求しはじめると、「母」が支えていた日本の「近代」は内部から空洞化していく。

 

「すでに性的主体となる意思も能力も備わっているにもかかわらず、このままでは性的主体からおりた男たちにどこまでもつけこまれることをよく知っているために、あえて主体を引き受けようとしない」状況にある。こんな社会のなかでは、漱石以来の「成熟」の課題など、誰も意に介さないようにみえる。

 

 

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