『アメリカン・ビューティー』
1997年。サム・メンデス監督。この映画が好きだ。
大みそかの夜、元旦へと日が変わってから、まだ起きていた友人と視る。
初めて観たときから、「あまりにアメリカ的だ」
アメリカ的な価値(その美質よりも、富や名声に象徴されるわかりやすい価値観や、もはや制御が効かない強欲と自由のどうしようもなさともいえる)
レスター・バーナム(K・スペイシー)、いま自分が従事している仕事にも、家庭の状況にも嫌気がさしている。娘の同級生アンジェラに華やかな健康さと若さを見ている。高校生の娘の友達アンジェラは同級生でもあるジェーンに「
妻は強欲の体現者。仕事(不動産)と名声に執着して、欲求不満で照り光りした中年不動産王と寝ている。
「精神構築と規律」とうそぶきながら、娘の友達アンジェラに言われたことを真に受けて体力増強に励むレスターの姿はさながらアメリカ的マッチョイズムの体現だ。
ジェーンは、
バイト先の上司に対して本音を臆さず言いたいことを言ってのけ
(レスターが妻に対して)「そういう自分は?強欲な蛇女」
リッキーはヤク売買のバイトをしている
「小児科の看護婦が客でね」
「死霊のはらわた、ビデオを貸すよ」という符号みたいな会話。
の違う人間を容易に自分の部屋に招く
レスター)
ペニスをビン詰めにされたこんな囚人生活はウンザリだ。
レスターは失業することにためらいというものがない。
て、ボス(会社)に対して躊躇せずに不満を放言し、攻撃する。
もう一つ、食事のときの音楽を変えろ。
ザリだ。
名シーン。
横に長いダイニングテーブルの両端を夫婦が、
どうしてここまで共通の価値が壊れてしまったんだろう。
それは、僕らがこれまでに知ったアメリカという国(国民であり、政治であり、文化)について知っているありゃりゃなアメリカのいかんともしがたさを下敷きにしている。
話の筋やストーリーテリングを駆動するアイテムとして、アメリカ的価値やイコンが多く入っている。
アメリカンビューティー。アメリカにとって、美を構成するもの。
それは決まった価値ではない。人によって当然、指すものが違う。
この劇中で、その例示やサンプルがいくつか描かれているとは思えない。
むしろ逆で、あまりに描かれていなさ過ぎるのかもしれない。
しかし、個々の人の内面に抱いている”美しいと思うもの”の提示はある。
それは、リッキーがビデオに録画していた、風に舞うビニール袋であり、レスターが夢にみる娘の同級生の性的なイメージである。
「ね?アメリカ人ってこんなんばっかだけど、でも愛おしいでしょ?人間ってそういうものでしょ?」そんな風に言っているようにも思える。
エンディングのナレーションがまた秀逸。
脚本のアランボールの言葉だろう。
美しいものがありすぎると、それに圧倒され 僕のハートは風船のように破裂しかける。そういうときは、体の緊張を解く。
するとその気持ちは、雨のように胸のなかを流れ、感謝の念だけが後に残る。
僕の愚かな、取るに足らぬ人生への感謝の念が。
戯言に聞こえるだろう。大丈夫、いつか理解出来る。