ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

『愛と暴力の戦後とその後(赤坂真理)』

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一昨年のスペイン旅行のときに持って行ったこの新書。

アンダルシアの、一面をオリーブという田舎を突っ切るバスのなかでかじりついて読んだのを覚えているが飛行機の中に忘れてきてしまったのか持って帰って来れなかった。

最近改めて購入した。

 

本人も断っているように、歴史家でも研究家でもない一個人としての、彼女が綴ったこの国の戦争に対するリアリティと認識(言葉)は、痛いくらいにこの胸に響いてくる。僕たちはこういう風に戦争を、この国を考えたことがあるだろうか。

 

 

ただでさえ暗い森にたとえられるような、自我と性のめざめにとまどう思春期に、

 

それなりに楽しかった中学二年生から三年生に上がったとき、周囲が一斉に一方向を向くのを私は感じた。と同時に周囲が殺気立ち始めた。それを思い出すとき私は、経験してもいない軍国主義というものを、思い浮かべることができる。軍靴の音を、感じ取ることができる。

 

 

アメリカは日本と違いすぎる。

同年代の少年はライフル銃を持って野生動物を撃ちに行き(原理的に考えれば教室で乱射だってできる)、ラウンジでは生徒同士のネッキングが日常的な光景で、ハイスクール主催の学年末のパーティには必ず男女のカップルにならなければ参加できない。

 

論題は、「昭和天皇戦争犯罪人である」

断定しているのでなく、肯定形で出すのが論題なのだ。

  

 

私の母は、軍国主義を信じていた子どもの自分を嫌悪している、という意味のことをぽつりと言ったことがある。

 

 

人々は、被害者でもあり加害者でもある自らの姿を、ひとつの象徴として、昭和天皇に見たのでないだろうか。ならば、だからこそ、心の中でも、天皇を裁けなかったのではなかろうか。自分も、免罪されるほどに罪のない存在だとは思えないから。

 

 

それは真珠湾に始める、広島・長崎で終わり、東京裁判があって、そのあとは考えない。天皇の名のもとの戦争であり大惨禍であったが、天皇は悪くない!終わり。

〜その前の中国との十五年戦争のことも語られなければ、そのあとは、いきなり民主主義に接続されて、人はそれさえ覚えていればいいのだということになった。

 

憲法の一条は天皇のことである。以下八条までが、天皇のこと、天皇、軍事、そしてその次に国民がくる構造になっている。つまり、八条までは大日本帝国憲法であり、そのうえに、現代を接ぎ木したような構造になっているのである。

 

 

 首相の知性の証が、漢字が読めるか、ということなのである。

 

一九三三年に起きたゴーストップ事件というもの。

帝国軍人の自己認識と矜持は武士階級なのだと思った覚えがある。

 

「場」がなくなるというのは、人が考えるより怖いことだ。

その上、その怖さは言語化しにくい。

最初から失われている者にとっては、身にしみることさえむずかしい。にもかかわらず、影響だけは受けている。「ない」ことからの影響はさらに言語化がむずかしい。

〜言語化できない不調を持ち続けることは、人間にとってもっともつらいことの一つではないだろうか。

 

 

日本人は、なぜ昨日までの的をあんなに愛したのだろうか。

 

六十年安保はシングルイシューの闘争でしたが、七十年はベトナム、沖縄、大学など色々な問題が錯綜していました。また、六十年は日本一国の話でしたが、七十年というか六十八年は世界同時性があります。

 

 

それは正規軍といえる質だったのだろうか?この問いに直面するとき、日本人として本当に傷つく。恐ろしくなる。

 

しかしわからないのは、中曽根、小泉、安倍は自民党の中でも最も強硬なアメリカ自由主義者なのに、この三人こそ右翼的であり、靖国参拝で物議をかもした三人であるということ。対米追従路線を貫きながら、プライドだけはアメリカを敵に回すことを主張するというような。

 

 

「完膚なきまでの敗戦」と「占領国アメリカへの『愛』」。そして、「自分とアジアの忘却」。

 

 

岡崎京子が繰り返し変奏した主な主題はふたつある。

「他人の欲望が私の欲望である」

「僕たちはみんなすぐ忘れてしまうね」

 

修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ

 

どんな日本を取り戻すのだろうと思っていた。明治を、取り戻すのだな、と持った。

 

 

 自民党改正案では、現行の第九十七条基本的人権が削除されて、追加された条:第百二条「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」

 

私は、どちらかと言えば現行憲法を守った方がよい、と考える。

その理由は簡単で、自国の政権とその暴力運用能力を、全く信じていないからである。

また、私たちは非常に低い暴力運用能力でもって大戦を戦い、暴力運用能力の低さゆえに無駄な犠牲をあまりに多く出した。そしてそのことを検証しないし、したがってそこから何も学んでいないのだから、戦争がまたできるとは、私は思わない。また戦争をしたら、この国は今度こそ自滅すると思う。それを敗戦ではなく自滅だと、私は思う。いささか屈辱的だろうがなんだろうが、憲法に戦争ができないというタガがはまっていたほうが、ずっとましである。

 

 

うまく敗けることは、ただ勝つよりおそらくむずかしい。プライドの示し方は、強さの誇示だけではない。男らしさの誇示でもない。

 

 

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