ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

『巨怪伝 〜正力松太郎と影武者たちの一世紀〜(上)』

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59年6月25日に行われた、天覧試合の回想からはじまる。

天覧試合は全生涯を賭けた最後の夢。


遡る三十六年前の大正十二年、警視庁警務部長だった勝利機が、テロリストによる摂政宮の狙撃、いわゆる虎ノ門事件の警護責任をとって免官に追い込まれていた。

正力は、突然我が身にふりかかったその災厄と挫折と汚辱を、三十六年後のその夜、他ならぬ昭和天皇自身によって雪がせたのである。


昭和三十年、富山二区から衆議院議員に立候補して初当選、七十歳の新人代議士ながら初代科学技術庁長官兼初代原子力委員長、国家公安委員長の要職に就く。

 

正力自身も認めるように、朝鮮人暴動の流言は、一部、警察当局自身から流されたものだった。

 

<明治末年、部数四、五万部の苦境にあえいでいた読売は、軍部の背後的勢力がその宣伝機関として利用されるのに陸軍機密費が使いこまれていると噂された。社説や編集が精彩を欠くようになり、出兵自重論から「シベリア出兵得策なり」の社説に急変し、さらに「一日も早く出兵すべし」と主張するに至ったのである>

 

運動部長には早大野球部の飛田穂州が就き

正力が社長に就任してすぐの大正十三年、国技館を使った納涼博覧会を企画、広い国技館でお化け屋敷を作る!無料招待券を下町いっぱいに配る!

 

関東大震災前、東京の新聞で最も勢力を誇っていたのは報知新聞で、その発行部数は三十六万部だった。つづいて福沢の時事新報と徳富蘇峰国民新聞が三十万部だった。

 

正力はさらに、釣り、競馬の予想、宗教欄、ビリヤード欄、麻雀欄な大衆が熱狂する折々のブームを抜け目なくつかんでは、大胆に紙面に取り入れていった。

 

昭和十年秋に多摩川園で菊人形展を開催を企画

東大同期の五島慶太を口説き落とした。

 

”正力は社員を平然と虫ケラ呼ばわりする一方で、同社退職後も生活が大変だろうといって籍だけ置かせ、十年近く給料を出すような人情味も見せた人物だった”

 

正力はファシズムや軍部を攻撃しなかったが、さりとて国家主義に積極的に同調したわけでもなかった。正力は戦争報道に力を入れながら、大衆が好みそうな猟奇事件の報道にも手を抜くことはなかった。大衆を非政治的存在とみなし、そうした大衆を拡大生産することこそジャーナリズムの本道だと信じ込んで邁進していったところに、読売の強さもあれば、あまりにも没理想的現実主義一辺倒からくる正力個人の不気味さも、またあった。

 

 

職業野球時代来る!

 

 

終戦後すぐ、日本労働争議史上最大の「読売第一次争議」

一、社内機構の民主主義化(正力独裁、警察的な側近政治の打破)

二、編集第一主義の確立(通俗的、扇情的な三面記事による販売第一主義の克服)

三、戦争中、国民を誤導した責任をとるため主筆、編集局長の更迭

四、、、、

 

・正力は、鈴木東民に代表される”アカい”社員に対して、太っ腹なところを見せた男だった

 

GHQの見解として、

<つまり、生産管理を、彼らの占領目的にかなう限界内で、短期の争議戦術として認めるがこれが資本主義をつきくずす革命的な萌芽形態になるような段階では、もちろん、容赦なくつぶす決意をもっていた>

 

・正力にとって、務台光雄という男は二律背反な男だった。全国販売店の絶対的な信頼をかちえ、それをバックに拡販に次ぐ拡販をつづけた務台は、正力にとってなくてはならない存在だったが、いつ自分の身が脅かされるかもしれない危険な存在でもあった。

 

正力社長、巣鴨へ収容

 

・オールドリベラリスト馬場恒吾に託した

 

マッカーサーの後ろ盾、吉田茂にも会い、第二次読売争議でアカを一斉した

 

・馬場の辞任以来空位となっていた読売新聞社長の座が埋まるのは、結局、正力没後約半年を経過した昭和四十五年五月の務台の就任まで待たなければならなかった。二十年にわたる社長空位。

 

 

 

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