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ここがパンチライン!(本とか映画、そんでときどき新聞の)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『洋の東西刺し貫けたら、深く遠くに届く』山口晃@2013年11月30日付 朝日新聞

創作のヒント 

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複雑な事象から公式を導き出そうとせず、複雑なまま並べるのは、前近代的と見られる所があります。でも東洋人である僕はそういう描き方があっていいと思う。かといって、それを異国風の味わいの「売り」にしたくはない。違和感を含めたまま、「美術」のルールもクリアできないかと思うんです。

 

 

西洋の遠近法である透視図法のようなルールを自然に身につけてしまった僕らは、それを「出来ない状態」には戻れない。それを自覚したうえで、その器に子供の頃のように自由で私的なものを盛り、洋の東西を刺し貫けたら、深く遠く届く表現ができるのではないか。それが実現できたら、自分は表現者として居場所を得ることができるのではないかと考えてきました。

 

 

それでも、形を正確にするだけで、絵が違う段階にいくというのはあるんです。それを僕は「絵が冷える」「温度が下がる」と言っています。

 温度が高いのは、例えば、高校の文化祭で音楽部の子が弾く微妙な音程のバイオリン。ドキドキするけれど、聴き入りますよね。出来たてだからおいしいという感じ。でもプロは、冷めてもおいしくなければ。温度が下がると、対象が少し遠く感じられる。その遠さに、見る側が居住まいを正すというか、ちゃんとしたものが現れたと感じてくれる。その感覚がほしいと思っています。

 

 

 

深夜にテレビで流れてた洋画(日テレ映画天国か?)を流し観していてふと思う。

本当は、自由になるのが怖いのかも。

常に”好きであること”を原理にして、それに突き動かされていたとして、

そんなことにも飽きてしまう、退屈してしまうことがあるんじゃないか。

そんな取り越し苦労ばかり、感じている。