『アンナ・カレーニナ 上 (トルストイ)』
幸福な家庭はすべてお互いに似通ったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。
オブロンスキー家ではなにもかも混乱してしまっていた。
キチイはヴロンスキーがワルツに誘うのを待っていたが、ヴロンスキーは誘わなかった。キチイはびっくりしてちらっと相手を見た。と、ヴロンスキーは赤面して、あわてて、ワルツを申し込んだが、彼がキチイの細腰を抱いて、最初のステップを踏み出すと同時に、音楽がやんだ。キチイはすぐ目の前にある彼の顔をじっとながめた。そして、彼女が愛に満ちた思いでじっとながめていたのに、相手がそれに答えてくれなかった。そのまなざしは、そのあとも長いこと、数年の後までも、痛ましいはずかしめとなって、彼女の心を傷つけたのであった。
「いいかい」彼は念をおした。「これは恋じゃんないんだよ。そりゃ、ぼくも恋をしたことはあるさ。でも、今度のは違うんだ。これはぼく自身の感情じゃなくて、なにかしら外的な力がぼくとつかまえてしまったんだ。
(つまり当時のロシアではブルジョア階級の人間までもが、結婚の様式と理想的な形が確立されておらず、理想的な結婚生活さえも混迷のイメージの中にあった。キチイが相手選びにも悩むに悩むはずである。「自分は誰と結婚すれば幸せになれるのか」という問いはそのまま「自分は誰を愛しているのか」となって跳ね返ってくるのである。)
彼は君のライバルのひとりだからね。
「ヴロンスキーとはねーーキリル・ヴロンスキー伯爵のむすこのひとりで、ペテルブルグ社交界の貴公子連中の中でも選りぬきの青年なんだ。
ところが、リョーヴィンに対しては、彼女もまったくさっぱりと、晴ればれとしたものを感じるのであった。しかし、そのかわり、ヴロンスキーとの将来を考えると、たちまち、目の前には輝かしい幸福な展望がひらけるのだが、リョーヴィンとの将来は、ただぼんやりと霞にかすんでいるのだった。
彼女は彼を見ないで、重々しく息をついていた。彼女は歓喜を味わっていたのだ。その心は幸福で満ちあふれていた。彼女は、彼の愛の告白がこれほど強い感銘を自分に与えようとは夢にも思っていなかった。しかし、それはほんの一瞬のことであった。すぐにヴロンスキーのことが思い出された。彼女はその明るい、誠実そうなまなざしをリョーヴィンの顔にそそぎ、彼の絶望したような顔を見ると、急いで答えた。
「そうはまいりませんの・・・・お許しになって・・・」
「リョーヴィンさんは都会を軽蔑して、あたしども都会人を憎んでいらっしゃるすんですよ」ノルドストン伯爵夫人が口をはさんだ。
ヴロンスキー
◎結婚ということは、彼にかつて一度も可能なこととは思われなかった。彼は単に家庭生活を好まなかったばかりではなく、自分の住んでいる独身者能勢かいから見ると、一般に、家族とくに夫というものには、なにか縁もゆかりもない、敵意とでもいった、そしてなによりもこっけいなところがあるように思われた。
◎完全にペテルブルグの伊達男。社交界で浮き名を流すのがステータス!
◎(自分にキチイの愛情が向けられていることを心底喜んでいた。→しかしそれが結婚圧力になることを疑ってもいない。乙女心読めな過ぎ、空気読めなすぎ貴公子)
◎(アンナ「カレーニン夫人」との最初の出会いは電車の中。しかも社内で通り道を譲ったときだ。その外貌から、もう一度顔を見たいという衝動に駆られる。)
「いいえ、そんなこと」伯爵夫人は相手の手をとっていった。「あなたとなら、世界を一周したって、退屈なんかしませんよ。だって、あなたはお話をしていても黙っていても、ほんとうにこちらの気持ちが楽しくなる、かわいい女の方でいらっしゃいますもの。〜」
キチイ
◎(恋する女の嫉妬よろしく、相手の視線や表情に自分の解釈を認めた。実際は彼と彼女が共通の知人の噂話といったつまらない会話をしていたに過ぎないにしても)
◎ある舞踏会で、大本命のヴロンスキーから踊りの誘いがほとんどなかった。
◎「彼女は、ふた理がこの人であふれている大広間にいながら、自分たちふたりだけのような気持ちになっているのを見てとった」
「いや、友だちなんかになることはできませんよ、そんなこと、ご自分でもおわかりでしょう。この世の中でいちばん幸福な人間になるか、それとも、不幸な人間になるか、そのどちらもあなたしだいなんです」
カレーニン
カレーニンはこれまでの生涯を、生活の反映としかつながってない官界でおくり、そこで働いてきた。そして、人生そのものにぶつかるたびに、それから身をかわすようにしてきた。しかし、今彼の感じた気持ちは、深淵にかかった橋の上を悠々と渡っていた人が、不意に、その橋がこわれており、目の前に深淵を見出したときの気持に似ていた。〜自分の妻がだれかを愛するかもしれぬという疑問がはじめて頭に浮かんだので、その思いに思わず身震いしたのであった。
すると、妻にも自分自身の生活がありうる、いや、あるのが当然だという考えが、あまりにも恐ろしいもののように思われ、彼はあわててその考えを追いはらおうとした。
思想と感情によって、他人の内部に立ち入ることは、カレーニンには縁遠い精神活動だった。
アンナはうつむいて、外套のフードの紐をいじりながら、はいって来た。その顔は明るい光輝に照り映えていた。もっともその光輝は晴れやかなものではなく、闇夜に燃える恐ろしい火事の炎を思わせた。