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ここがパンチライン!(本とか映画、そんでときどき新聞の)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『現代アートの本当の楽しみ方』

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会社の図書室で借りた。

遠藤水城さんと五野井さんの対談中。

 

学問において、自由と民主主義を戦前戦中戦後とつないできたのがやっぱり岩波・朝日文化なわけですよ。

 

 

遠藤美術でも、美術館に行くということは何かを学ばなければならない、何かを得るものだ、といったような目的があって行く人がいる。でもそういう人って、絶対に「現在美術はわからないからイヤ」と言う。印象派展などなら、なにか素晴らしいものが得られた、となるからいいんだけど現代美術になると目的が遂行されない、得られないからイヤだとなる。同じように、デモも、デモに対する反対理由として「それをやって何になるのか、それで何が得られるのか、それで政治が変わるのか。」というのがあると思う。

五野井デモへのアレルギーとアートへのアレルギーに共通して見受けられる、自分にとって不可知なもの、まったく理解できないものに対して価値を見出せないどころか、わざわざ嫌悪感を示すという反応ですね。

 

 

価値は内在している、つまり価値は自分でつくれるということ。それが実践できないということは、要するに内在的な力への信頼がないということが問題なのではないか。

 

自分の感じた感慨を肯定する力が自分にない。

わからない、ということ自体が肯定的な喜びになることだってあるわけです。

 

ある瞬間、自分が無力だとわかってしまうのがイヤなのかもしれません。別にその瞬間無力なだけであって、それが永続的に続くわけではないのに

 

単なる数には還元されない、質をともなったものへと返還されるようになる。

 

その嫌悪の態度表明のほうが、結果的には自分を無力化しているんですよ。権威を外在化させて、実体化して、それに従うだけの自分を逆説的に作り出してしまう。

 

ある種のコンフォーミズム、既に画一化されて、かつある制度の中で安定しているものにしか価値を認められない、つまり自分で価値をつくってはいけないという態度そのものが、この瞬間ににも価値を形成していくという自覚・・それが、そうした人たちは弱いのかもしれない。

 

現代美術のなかには、もちろん説明的になりすぎているとか、コンテクストに依存しすぎている作品とか、多いですよ。でも、それらにしてもその根本には内在的な力があり、それが制度批判であると同時に新しい制度の生成に関わっていることさえわかれば、極めてポジティブな作品群なんです。

 

 

 

人は何かに飽きるとき、その対象から新しい何かを発見できなくなっています。

 理解できてしまったがゆえに、先が見えてしまった気になって、飽きてしまったのかもしれません。

 いずれの理由にせよ、共通するのは「一定の習熟」による受け手にとっての「刺激の低下」の発現です。

 

 

・・・さまざまな楽しみ方を実践すれば、なかなかどうして、飽きようとしても飽きることが難しいものではないかと考えます。

 

 

 

Amazon.co.jp: 現代アートの本当の楽しみ方―表現の可能性を見つけにいこう (Next Creator Book): しりあがり寿, 日比野克彦, 中島隆, 森芳功, 松本次郎, 三ツ木紀英, 遠藤水城, 五野井郁夫, 菊地良太, 川崎昌平, フィルムアート社: 本