ここがパンチライン!(本とか映画、そんでときどき新聞の)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

「活字文化・出版文化を考える」 -読売ADレポート2002年10月号

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読売ADリポート ojo:adv.yomiuri

 

 

たしかに、情報は氾濫してるかもしれない。

でも、そんな中でもなるべく良質な言葉で、長いことなく沈まずに浮いていられるだけのいかだを作ろうというのがわれわれの信条だ。

 

 

そのマルキシズムがなぜ敗れたかというと、テレビが出て来たからだ、という考え方もできるわけです。つまり、マルキシズムの考え方は論理的で、印刷文字にもとづき、近代的なのですが、テレビは論理に訴えるよりも、諸感覚を揺り動かす装置です。それが後期キャピタリズムとうまくマッチしたとも言える。

 

例えば、ぼくらの世代はまだ印刷文化が主流の時代に育ったから、文章がどうしても硬い表現になります。もちろん昔の漢文とは違いますが、完全な話し言葉とも違います。ところが、パソコンが普及してから育った人たちは、本当の話し言葉で書いている。

 

 

つまり、自分の内面の声を聞くというのはぼくらの世代までの考え方で、それが文字の書き方になっている。それに対して、もっと対人関係の生の状態にある言葉をそのままに映していくのがたぶん電子メディアの時代の感覚です。それは内面への探求とはちょっと違ったスタイルを生む。

 

もう一つは、グローバル化した世界は「あっち側」にだけ悪いやつがいるのではないということです。悪いやつは自分たちの共同体の中に深く浸透している。つまり、問題自体が自分たちに内在しているのです。だから、悪いやつを徹底的にやっつけようとすると、いつの間にか自分たちに対する攻撃になってしまう。自由と民主主義のために戦っているのに、人権を無視したような政策がセキュリティーの名のもとに容認される事態になっていくわけです。

 

 

オタクたちがデータベースを構築しようという意志に憑かれていることを指摘している。データーベースというのは、彼らにとってはひとつの宇宙(ユニバース)です。

 

 

 

ちなみに、

「会話はキャッチボールじゃなくてドッチボール。いかに避けるかが当時は重要だった」って、チームラボの猪子さんが言ってた。