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ここがパンチライン!(本とか映画、そんでときどき新聞の)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『美しい距離(山崎ナオコーラ)』

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「貫禄」という言葉がふさわしいのだろうか。

候補作品の中では(やはり)一番上手いと思った。

だって5回目のノミネート。いいかげんなんとかしてくれといった具合だろうか。5回目ともなると、いちいち版元の編集担当と待ってもいないと思う。残念会という名の飲み会。さぞかし憂鬱だろう(ひょっとしたらノミネート自体が憂鬱かもしれない)。

 

ナオコーラ。もう本読みはよく知っているのだ。

芥川賞は、本読みに認知されている名前を一般にも知らせしめる、そんな儀式なのだ。

 

丁寧に個人の気持ちを拾っていく主義。

社会や誰か他人のこしらえた価値とか言葉で私の生活や人生を語らないでくれ。。

そのスタンスで綴られる彼女の小説には、共感出来る部分はとても多い。

問題はそれが、どういう構造で、読後にどれだけのものが残るかだ。

 とはいえ、文芸誌でバッタリ出会った短編としては秀逸。さすがやなあと関心するほどだでに、はて5回目のノミネートにて、受賞はなるか。

(ちなみに、筆者の本命は「ジニのパズル(崔実 チェ・シル)」。対抗がナオコーラの本作です)

 

妻は、会社の上司の娘だった。

 

 序盤にこういう一文があると、期待してしまう。

「会社の上司の娘ではなくなっていく妻」が、どう書かれていくか期待したものだが、今回はそうゆう話ではなかったようだ。

 

しかし、他人の「ありがとう」だの「幸福」だのを求めるのもばかだった。他人に頓着せず、自分の心にのみ興味を持ってみるか。

 

 

何気なく、ビジネスバッグから仕事の資料を取り出し、目を落とした。お見舞いに来ている、というのではなく、ただ会いに来て、自分の用事をしながら普通に日常を過ごしている、と思わせた方がいいような気がしていた。 

 

「この病気に四十代初めでかかるのは稀」と年齢にこだわって病人を見る方が、むしろおかしいのかもしれない。「若いのに、なぜ」「たばこを吸っていないのに、なぜ」と度々頭に浮かんで来るのは、病気に対して因果応報の物語を当てはめようとしているからだろう。予防をしたい人ならともかく、すでに病にかかっている本人やその家族が、原因についてこだわることで見えてくる明るい方向などないような気がする。

 新しい物語を見つけなくては。

 

 

「来年は、一緒にお花見をしよう」というのは良い科白ではなかった。しかし、これまではずっと、未来を見ることで明るく生きてきたのだから、未来を見ずに明るく生きる方法が、今はわからない。

 

 

治療や研究をしている人にとっては、パーセントは重要なものなのだろう。だが、固有の生を生きている患者にとってはどうだろうか。パーセントでくじ引きのような感覚を味わうのはばかばかしい。

 医者たちが考え出した「余命」という物語に個人が合わせて生きていくなんて頭が悪過ぎるそんなに受け身でどうするんだ、と思ってしまう。

 ステレオタイプの言葉に洗脳されてたまるもんか。

 

 い、いらだってる...。

 

そういった問いを耳にするとき、他人の物語を押しつけられた、と感じる。妻は妻だけの物語を生きていた。しかし、妻自身が紡いだ物語とは別の一般的な物語によって、妻の終末が他人に認識されていく。すると、指と指の間からスライム的なものがだらだらと落ちていくような感覚を味わう。

 

 

「十五年間、身に余る楽しい生活を送れました。ありがとうございました。これから、周りにいる人たちを支えていけるよう頑張ります。いつか、そちらへ行きます。がんがいいな、と思っています。立派な終り方でしたね」

 

 このくだり好きだなー。

 

墓の前で手を合わせると、尊敬語も謙譲語も出てくるようになった。

出会ってから急速に近づいて、敬語を使わなくなり、ざっくばらんな言葉で会話し始めたとき、妻との間が縮まったように感じられて嬉しかった。でも、関係が遠くなるのも乙なものだ。