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ここがパンチライン!(本とか映画、そんでときどき新聞の)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

耕論: 性表現と法規制 ー林道郎氏、平野啓一郎氏、上野千鶴子氏(7月27日付 朝日新聞)』

新聞記事で・・・  批評・評論 

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 ろくでなし子の「アート作品ーわいせつ裁判」について。現代司法の良識と見識を問う紙面。たしかに、こういうものは誰もやってないし(少なくとも表に出ててない ※有名じゃないってことだ)、批評性もあっていいと思う。

 個人的にはこういうとき、「新しいものを訝しがらずに理解しようとする」スタンスなんだけれど。現代アートには「で、なに?」ってものも正直多い、ような気がする。

判決は、作品や3Dデータがわいせつ物にあたるかを検討。作品については現実の女性器とは違う着色や装飾がされているため、「ただちに女性器を連想させない」とした。「ポップアートの一種ととらえることが可能で、女性器への否定的なイメージをちゃかすなどの制作意図を読み取ることができる」とも指摘。「芸術性、思想性によって性的刺激が緩和されている」としてわいせつ物にはあたらないと結論づけた。(朝日新聞 16年5月9日)

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林道郎氏(上智大教授)

1960年代、女性は「描かれる側」だった美術界で、「自身の身体を自身の手で取り戻す」と考えた国内外の女性アーティストが象徴として女性機をモチーフにした作品をつくり始めます。

 

わいせつ罪を規定する刑法175条が元々持つあいまいさが合わさって、判例踏襲と硬直した性器中心主義を繰り返しているように見えます。

 

最高裁はかつて「芸術性がわいせつ性を緩和することがある」との判断を示しており、データ配布を芸術の一環として考慮することはできたはずです。しかし今回の判決は「前後の文脈を考慮せず」、データそのものだけで判断すべきだ」とした。

一方、女性器の医学教本は、医学のためという文脈が考慮され、摘発されることはない。この非対称には疑問を持ちます。

 

 

芸術を含む表現の自由が、憲法に書き込まれているのは重要なことです。今の価値観が絶対ではないと疑いをもち、自己批判的な意見が出ることを保障している。芸術はその時代の価値観に挑戦し、それを取り込むことで発展してきました。これは社会にとって大きな推進力です。

 

 

平野啓一郎

日本人は不思議なほど、わいせつの問題を性器中心主義でとらえる。

〜 中略 〜

 法律が現実に対応できていないからこそ、変に昨日させようとしている力を感じます。

そこに潜んでいるのが「公益」という発想です。いまの憲法改正の議論でも、公益と講評の福祉の混同が見られますが、本来は全く違う概念です。公益は、社会的な合意なしに一般人にとっての「利益」が定められ、強制されることで、人間の多様性を脅かすものになりかねません。

 一方、公共の福祉は、個々人の多様な利害調整の為の概念です。わいせつの問題の解決に役立つのはこちらで、見たくない人には見せない、子どもには見せないというゾーニングなどが考えられます。

 

 

性器中心主義が結局は男性器中心主義の価値観ではないかと社会を挑発しています。

〜 中略 〜

ささやかな作品一つで、社会がそれまで排除してきた価値観を包摂し、より複雑な現実に対応した豊かなものになることもある。そこに芸術の魅力を感じます。

 

 

 上野千鶴子

男性に所有され管理されてきた女性器を女性自身に取り戻そうという〜、、

 

ただ、自分の性器の3Dデータをクラウドファンディング寄付者に提供したことについては、3Dデータを「性器そのものだから」とした司法の判断とは離れた立場から疑問を持ちます。

司法は「女性器はわいせつか」という命題を立てた上で「芸術性がわいせつ性を緩和する」と考えてきましたが、社会的には無意味です。解剖学も医学も芸術も文脈次第でいくらでもわいせつになる。芸術に価値を与えるのも、わいせつ物になるのも、作品がどう消費されるか、という文脈にあるからです。