ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

『竹中労(KAWADE MOOK)』

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#トップ屋

 

竹中 この世の中に面をさらしたい、有名になりたい、ゼニは稼ぎたい、自分の生活は隠しておきたいなんてムシのいい話はないでしょう。

 

SEXとは見るものではなく、行うことであったから。ゆえに人々は健康だった。性を抑圧されてノイローゼになり、電車の中で娘たちの尻を撫でたり斬ったりして、警察のご厄介になる破家はいなかった。そもそも。痴漢という観念はなく、人みな助平であることこそ常態だったのだ

 

無限に連環する森羅万象を有限のフレームに切りとる営為は、すぐれて虚構でなくてはならない。活字にせよ映像にせよ、ルポルタージュとは主観であります。「実践」といいかえてもよい、ありのままなどという、没主体であってはならないのです。

 

取材における大前提は「予断」であると断言する。ありがちな「予断を捨てよ」ではなく「予断を持て」と奨励する。予断とは思い込みであり、主観と云い直すこともできる。その主観が現場で翻弄され、時には新たな主観を組み直すことを余儀なくされる。 

 

ただしルポルタージュとはありのままの現実を客観的に描写するものだと思っている人が世の多数派であるとの前提(予断)を置くならば、そのルポルタージュを仕事にしながらありのままを否定することは、並大抵の胆力ではないとの見方はできる。

 

政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。(中略)人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。坂口安吾「続堕落論」)

 

全てを系譜的に読まねば!

 

国電の網棚の上に読みすてられるイエロージャーナリズムに、私にとっての“言論の自由”はある」(「決定版ルポライター事始」)

 

90年代初頭の上野公園や代々木公園には、多数のイラン人労働者の姿があった。

 

一九六三年の映画『下町の太陽』(山田洋次監督)では、東京荒川沿いの下町に住む倍賞千恵子演じる女工が、荒川を渡る電車に乗りながら「団地に住みたいわ、郊外の団地に」とつぶやいたように、団地は若い夫婦、その予備軍である若者にとって憧れの対象だった。戦後の劣悪な住宅事情と違い、文化的で清潔な暮らしが望める。そんな団地の入居希望者は多く、当選倍率は十数倍から数十倍になっていた。

 

ブルジョワ性とたたかう

 

団地への希望の喪失は一九七一年に日活がアクション映画中心から路線転向してポルノの製作に移行した第一弾としてつくられた『団地妻 昼下がりの情事』においても描かれた。

 

 

 

竹中労---没後20年・反骨のルポライター (KAWADE道の手帖) 

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