『アナーキズム(浅羽通明)』
1910年 大逆事件
(幸徳秋水ほか24名が天皇暗殺謀議のかどで逮捕、半数が処刑)
1923年 大杉虐殺(甘粕事件)
(戒厳令下の不法弾圧事件。憲兵隊によって伊藤野枝、甥の宗一さも虐殺さる)
「いかに自由主義をふり回したところで、その自由主義そのものが他人の判断から借りたものであれば、その人はあるいはマルクスの、あるいはクロポトキンの思想上の奴隷である」
他の労働運動家の演説会へおしかけ、弥次り倒して自ら縁談へかけ上がり論戦する「演説もらい」
権威が権力であれば、どこでもそれを攪乱し、今ここに無政府の社会をミニチュアであれ出現させて見せるのが大杉のやり方であった
個々人のエゴを肯定し、それぞれの自由な伸長をよしとして弱肉強食の闘いへ陥らず、調和を保っていくという保障があるのか!(近代思想のジレンマ。漱石の悩みもここにあった)
吉本の目線は、夕食の買い物へ赴く生活者の低く等身大のものだ。
大衆の原像を思想の原点として、その大衆の生活水準の高さ、思想的自由さ、技術水準を社会主義よりずっと進んだ「人類の歴史が無意識に生んだ最高の作品」と言い切った高度資本主義社会。
対して、埴谷雄高は、「豊かな者と貧しい者、大企業と零細企業といった差はなくなっていない。アジアアフリカ諸国の絶対的貧困の上に先進国の資本制が栄えている事実を忘れてはいないか」という。
腹のほうから、背のほうをさぐってゆくと、小高くふくれあがった肛門らしいものをさぐりあてた。その手を引きぬいて、指を鼻にかざすと、日本人とすこしも変わらない強い糞臭がした。同糞同臭だと思うと“お手々つなげば世界は一つ”というフランスの詩王ポールフォールの小唄の一節がおもいだされ、可笑しかった。「ねむれ巴里(金子光晴」
司令塔なくして国家権力と拮抗し、これを廃絶へもってゆく闘いなどはたしてできるのか(アナーキズムの最大のなきどころ)
死に縁取られた有限な存在であるからこそ、人間は生を拡充させようとし、また相互扶助が生まれる..。永遠の生命を約束する者はアナーキズムの敵である
「そんな革命が何の役にたつの?」と問う女子大生のツッコミに対して、よい音楽、よい詩、よいセックスへの没入と同じで、それ自体が目的だとしか答えられない。
現代日本において、自由はとっくに魅力ある価値ではなくなっているのだ
安全と豊かさに恋々としている限り、自由を唱える資格などないのである
・規律訓練型権力(学校職場などに刷り込まれる均質な思考、行動、ルール)と環境管理型権力(VNSやウィンドウズなど他の選択肢がなくなるほどに浸透して思考、行動を規定する仕様)
・自分の脳髄によって、自分が働かしているもの
・一人一殺の情念的な超国家主義
・あらゆる権力は自己目的化し、腐敗する
相田みつおだってこれくらいは言う