ここがパンチライン!(本とか映画、そんでときどき新聞の)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『細雪(上)』

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谷崎である。細雪である。

この歳になって、日本の小説、否、近代文学の素晴らしさがよく分かるようになってきた。日常や生活に垣間みる、心情と風雅の機微(言語化)。

 新しいものではなく、古くて今でも残っているものを繰り返し読むべきだ、そう思うようになってきた。

 新しい小説に価値がないってわけじゃない。ただ、この世の中には読むものがあり過ぎるから、優先順位があってもいいって、そういうことだ。

 

大阪船場、蒔岡家の四人姉妹(鶴子、幸子、雪子、妙子)、昭和十年代の関西上流社会。

 娘のいる上流家庭の体面。家族の中でもメッチャ気使う、行き遅れた真ん中の娘(雪子)問題。東京に本家が越して、雪子が神経衰弱に。。

 

ヴィタミンBの注射をするのが癖になってしまって、〜家族が互に、何でもないようなことにも直ぐ注射し合った。

 

 

要するに御大家であった昔の格式に囚われていて、その家名ふさわしい婚家先を望む結果、初めのうちは降る程あった縁談を、どれも足りないような気がして断り断りしたものだから、次第に堰けんが愛想をつかして話を持って行く者もなくなり、その間に家運が一層衰えて行くという状態になった。

 

 

まず身の丈からして、一番背の高いのが幸子、それから雪子、妙子と、順序よく少しづつ低くなっているのが、並んで路を歩く時など、それだけで一つの見ものなのであるが、衣装、持ち物、人柄、から云うと、一番日本趣味なのが雪子、一番西洋趣味なのが妙子で、幸子はちょうどその中間を占めていた。顔立ちなども一番円顔で目鼻立ちがはっきりしてい、体もそれに釣り合って堅太りの、かっちりした肉づきをしているのが妙子で、雪子はどの反対に一番細面の、なよなよとした痩形であったが、その両方の長所を取って一つにしたようなのが幸子であった。服装も、妙子は大概洋服を着、雪子はいつも和服を着たが、幸子は夏の間は主に洋服、その他は和服と云う風であった。そして似ているという点から云えば、幸子と妙子とは父親似なので、大体同じ型の、ぱっと明るい容貌の持ち主で、雪子だけが一人違っていたが、さう云う雪子も、見たところ淋しい顔立でいながら、不思議に着物などは花やかな友禅縮緬の、御殿女中式のものが似合って、東京風の渋い縞物などはまるきり似合わないたちであった。

 

 

さすがに優越感を抑えがたいところもあって、「あたしが一緒やったら雪子ちゃんの邪魔することになるねんて」と、夫の貞之助の前でだけは幾らか誇らしげに云ったり、

 

 

大概の大商店が株式組織になった今日では、「番頭さん」が「常務さん」に昇格して羽織前掛の代わりに背広を着、船場言葉の代りに標準語を操るようになったけれども

 

 

二人で並んで盃をする時に、花婿の風采があまり爺々して見えるのでは、雪子が可哀そうでもあるし、折角世話をした自分たちにしても、列席の親類達に対して鼻を高くすることが出来ない。

 

 

まだ小学二年生の少女でも、神経衰弱に罹らうことはるだろうか。

 

 

 

鬱みたいなことって、そりゃ昔もあったんだよな。。

 

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