『「都市主義」の限界(養老孟司)』
会社の図書館で見つけた、養老翁の各種コラムや講演原稿を編み直したもの。
最近、深夜のテレビで養老翁が加藤浩二の質問に答える番組やってて、急いで録画した。この人の話していることは、先達の経験と知恵として胸に留めておくべきことが多いような印象がある。
かつてバカ売れした「バカの壁」も当時読んだ筈だったけど、要点が思い出せない。
歴史やジャーナリズムは「起こったこと」を書く。しかし、「起こらなかったこと」は書かない。ゆえに「何かが起こらない」ためには人々が傾注した努力はしばしばなかったものにされてしまうのである。
p10
学生は無意識から意識へ、田舎者から都会人になろうとしていたのだが、大学はむしろ「田舎的なもの」を多く抱えていた。それが大学の「封建的構造」と呼ばれたものだった。p14
私が巻き込まれた紛争とは、要するに田舎が都市化するときに起こった、一時的な現象だったのである。p16
大学紛争の時代にも「都市対田舎」を明瞭にした政治運動があった。 p18
それを政治的な「左右」主義で見るべきではない。将来の事態を見誤る可能性がある。
『平家物語』が平忠盛、東夷が首を晒したい、とんでもない野蛮な田舎さ p24
日本人は死んだ人の悪口をまずいわない。これも見ようによっては、「歴史の消し方」であろう。死ぬことが不幸なことであるだけに、それに加えて、生き残った者が悪口まで言うことはない。そういう優しい心情から悪口をいわれないものだともとれるが、べつなふうにもとれる。死んだら最後、世間の人ではなくなるのだから、もはや生きている人間の現世の利害に関わりはない。それなら誉めておけばいいという、きわめてドライな態度なのかもしれない。
p45
亡くなった胡桃沢耕史氏の直木賞受賞作『黒パン俘虜記』は、その意味で参考になる。ウランバートルの捕虜収容所では、労働がきつくて食物の話である。俺はカツ丼だ、俺はカレーライスだと、思い思いのことをいう。そうした食物を考えてどうするのか。自慰をするというのである。
生物の雄としては、これはたいへん合理的である。なぜか。食物があれば、個体は生き延びる。生き延びれば、次の種付けの機会を待つことができる。金持ち喧嘩せずである。食物がなければ、できるだけ早い機会に、つまり飢え死にする以前に、生殖の機会をもつ必要がある。つまり食べるか、種付けをするか、そのどちらでもいい。それならそういう限界状況では、食欲と性欲が一致するはずなのである。両者を区別する必要がない。男の脳はそういうふうにできているらしい。
p49
戦後社会の変革を、私は都市化と定義してきた。
平和とか、民主主義とか、経済の高度成長とか、ありとあらゆる表現もできよう。しかし私が経験してきた社会変化の基本は、要するに都市化である、理科的に表現するなら「脳化」なのである。そうした世界では、人々は自然を排除し、すべてを意識化しようとする。つまり人工化しようとする。
p80
だから一日に一度は、自然と対面すべきなのである。
日常生活を、むしろ自然によって妨害されるような様式に変えていくべきである。それなら自然について、考えざるをえなくなるからである。この前の日曜日、私は虫撮りに行くはずだった。しかし残念ながら雨が降ったのである。
(二〇〇〇年八月)
p91
なぜ老化するかを調べると、じつにさまざまな意見があるとわかる。
ということは、正解がないということであろう。こういう場合、科学の常識では「まだ解答がわかっていない」という。
しかし、これもよくあることだが「質問が悪い」という場合もある。
p97
(震災のあと ※ここでいう震災は阪神淡路大震災)
オフィスのドアを開けると、ーー彼は非常に几帳面な人なのですがーー部屋のなかがぐちゃぐちゃになっている。その惨状を見た瞬間、彼はかーっと腹が立って、こう叫んだというのです。
「だれがこんなことしやがったんだ!」と。私は笑って思わず「あんたは都会人だね」といったのですが、要するに地震だということがわかっているのにこういう反応をしてしまう。「先生、まだ腹の虫はおさまりません。こうなった以上は天皇陛下にやめてもらうしかありませんな」と、こうですから。
p132
ちょっとお考えいただきたいのですが、現在仏教国はどこにあるでしょうか。日本、モンゴル、チベット、ネパール、ブータン、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ヴェトナム、スリランカです。世界地図を見るともののみごとにわかりますが、インドと中国という仏教の本家本元で仏教はきれいになくなり、残っているのは完全にその周辺だけです。
ですから、仏教は都市宗教ではなく、自然宗教だと私は考えます。自然宗教は当たり前の話ですが、自然が残った地域に残ったのです。
p135
そもそも妊娠中絶が日本で「倫理」問題になったことは、世間の本音としては一度もない。それを私は確信している。胎児は母親の一部で、ゆえに母親の一部で、ゆえに親の処分に任されている。それが延長されれば母子心中となり、挙げ句の果ては、保険金のために息子に死んでもらうという同意になる。
ーー
それは外国の意見だけを顧慮した、一種の鹿鳴館政治に過ぎない。
p152
肝心のことを隠そうとすると、人はしばしば饒舌になる。
それは警察官がよく知っていることである。
p200