『この人の閾(保坂和志)』
小田原での人との約束時間まで少し時間があったので、大学時代のサークルの友だちと久しぶりに会おうという話。その、きまぐれ感、なんとなくな設定はこの人の小説そのものだ。
「ふうん。
三沢君って、昔からけっこうヒューマニスト的なところがあったわよね」
ヒューマニスト的?ぼくは小さく笑っただけだったが、聞いた途端に悲しいような気持ちが起こった。記憶の中の真紀さんといまの真紀さんの違いを感じたのだ。サークルのあの部屋でしゃべっていた頃の真紀さんだったら"ヒューマニスト的"というような安直な言葉は使わないはずだった。
そういう何でもかんでも十把ひとからげにして雑に結論づけてしまうような週刊誌や新聞記事みたいな言葉を一番嫌っていた、というか敏感だったのが真紀さんで、ぼくは不用意な言葉をずいぶん指摘された。
(→こういうように相手にことを散々悪く、違和感を抱きながらもそういう人間と近接して生きるというのはどうだろうか。会う度に以前とは違う部分を発見しウンザリするんだけれどもそれでも交友関係を続けていく)
ぼくが「アル中って、病院に入ると必ず治せるんだけど、退院するとまた戻っちゃうんだって。三ヶ月で戻る人もいるし、三日で戻る人もいるし、十年たって戻る人もいるんだってさ」と言ったときも、真紀さんは「でも、三日で戻るのおと十年たって戻るのは全然意味が違うじゃないか」と言った。
「それは戻るの方にごまかされてるのよ。三日なのか三ヶ月なのか十年なのか、その長さに重点を置けばいいのよ」
「うちのダンナなんか嬉々として働いちゃってるわ。毎晩終電でも全然平気。むしろ喜んでるみたい」
真紀さんの口調には嫌そうに言っているような感じがあったがぼくは黙っていた。ぼくは真紀さんに同調しないように気をつけた。嬉々として働くタイプはぼくも嫌いだが、第三者が調子に乗ってそんなことを言うと怒りだすことだってある。
「なんか言ってた?」
「こんなヤツだ部下にいなくてよかった』とか」
「わからなかったみたい」
ぼくは急に会社で一番嫌いなヤツの顔を思い出した。
しかし嬉々として働いているタイプにはそういうくだらない計算はない。
ーーと、ぼくは前に何度か考えたことのあるこの考えを、このときもう一度考えた。
「ーーだからあたし、恋愛っていうものにあんまり免疫がなかったから、ダンナと結婚する前のつき合ってた期間は、ーー何て言うの?自分の感情の方に夢中で、あの人のことよくわからなかったのね」
「いるもん。いますね。六年の高橋君はディフェンダーだけど攻撃参加するんですね」
「それにニーチェって、一瞬にしてわかるかそうじゃなかったら、ずっとわからないみたいな書き方でしょ?違うのよね。ヘーゲルとかハイデガーなんかの方がねちねちしてていい。
「あたし、いまのあなたの話聞いてて『クジラが魚でないように、コウモリは鳥ではない』っていう構文思い出しちゃった」
ぼくは少し悲しいような気がした。真紀さんの口を借りて普遍的な母親がしゃべったような気がしたからだ。普遍的な母親というのはぼく自身の母親と言い換えてもいいのだろう。