ここがパンチライン!(本とか映画、時々 新聞)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『書く力 -私たちはこうして文章を磨いた-(池上彰・竹内政明)』

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確かに、読んでいて「あまり面白くないな」と感じてしまう文章は、ほとんどの場合、厳しい言い方のようですが、構成に工夫が足りないとか、表現力が足りないとかいう以前に作者自身が「自分はこれから何を書くか」をはっきりとわかっていない。だから工夫のしようもない、あるいは工夫の仕方がズレている状態におちいってる気がします。

 とにかく「書くべきこと」をはっきりさせる。

 

 

自分の小さな経験から入る。身の回りを描きながら、地球の裏側で行われたオリンピックという大きな話題につなげていく。

 

「わかりにくい文章を書いている人は、その物事についてよくわかっていない」と考えています。自分でも内容を十分に理解できていないから、文章が整理できない。

 

自分が本当に分かっていることを、自分の言葉で書くというのが基本です。

 

 

土地の中学生の一団と、これは避暑に来ているらしい都会の学生の一団とが擦れ違った。海辺は大方の涼み客も引揚げ、暗い海面からの波の音が急に高く耳についてくる頃であった。擦れ違った、とただそれだけの理由で、彼らは忽ち入り乱れて決闘を開始した。驚くべきこの敵意の繊細さ。浜明りの淡い証明の中でバンドが円を描き、帽子がとび、小石が降った。三つの影が倒れたが、また起き上がった。そして星屑のような何かひどく贅沢なものを一面に撒き散らし、一群の狼藉者どもは乱れた体型のまま松林の方へ駈けぬけて行った。すべては三分とかからなかった。青春無頼の演じた無意味に無益なる闘争の眩しさ。やがて海辺はまたもとの静けさにかえった。私は次第に深まりゆく悲哀の念に打たれながら、その夜ほど遠い青春への嫉妬を烈しく感じたことはなかった。 

井上靖「海辺」

 

 

「手垢のついた表現」と「ベタな表現」は違いますね。

甲子園球児が宿舎で夕食のトンカツを<ぺろりとたいらげた>式の「手垢のついた表現」には読み手との交感がない。そう書いておけばラクだから、という思考停止の産物でしょう。

 

 

「なになにの被害者を見るやにわかに劣情を催し、同女をその場に押し倒し、強いて姦淫したものである」

 

 

・「こだわる」という言葉の使い方。本来的な意味は固執してはいけないときに固執してしまうこと。

 

 

 

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