『ゲンロン0 観光客の哲学』
上半身は思考の場所、下半身は欲望の場所である。 p121
観光客とはなにか。それはまずは、帝国の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在の名称である。
p155
「郵便」は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉である。
p156
誤配すなわち配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態という意味で使われている。観光はまさにこの意味で「郵便的」である。ぼくたちは観光でさまざまな事物に出会う。なかには本国ではけっして出会わないはずの事物もある。たとえば美術にまったく興味がないひとも、フランスやイタリアに行けば美術館めぐりをしてみたりする。
p158
ひとがだれかと連帯しようとする。それはうまくいかない。あちこちでうまくいかない。
p159
家族は、自由意志ではそう簡単には入退出ができない集団であり、同時に強い「感情」に支えられる集団でもある。家族なるものには、合理的な判断を超えた強制力がある。
p215
ドストエフスキーは、過程の崩壊を描写するために「偶然の家族」という言葉を使ったことがある。家族が家族として集まっている必然性のない家族という意味だが、しかしほんとうは、すべての家族が偶然の家族である。
p216
ポストモダンとは「大きな物語」の喪失によって定義される時代である。それは精神分析の用語で言えば「象徴界」の失調を意味している。
そしてここで重要なのは、さきほど紹介したジャンルSF史における「宇宙」や「未来」の地位低下は、まさに、時期的かつ内容的に、文学におけるポストモダン化の現れだと考えられることである。宇宙と未来の失墜、それは大きな物語の喪失にほかならない。
p251
彼は逆に、その痛さを忘却してしまうことは人間の誇りを失うことだと考えている。
「わたしはひとつつまらない質問を出してみようと思う。安っぽい幸福と高められた苦悩とでは、はたしてどちらがよいか、ということだ。さあ、どちらがいいか?」
ここには、動物的ユートピアを拒否する論理のひとつの雛形が提出されている。
p270
子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。ひとことで言えば、これがぼくがこの第二部で言いたいことである。
p300