ここがパンチライン!(本とか映画、時々 新聞)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『無意識の構造(河合隼雄)』

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彼女は耳が聞こえないので、筆談をするわけだが、筆談をかわしながら、こちらはそこに書く質問などを声に出していいながら書いてゆく。そして、彼女はだんだんと筆談の中にひきこまれてきたと感じたとき、それに関連したことを紙に書かずに口頭で質問する。すると、不思議なことに彼女はそれに応答してくる。つまり、彼女は聞こえていることが判明するのである。

 

ユングは単語連想検査というのを用いることを思いついた

 

 

朝起きているうちに、なんとなくいらいらしてくるときがある。いくら考えても原因が解らないときもある。しかし、あとで反省してみると、新しく大臣になって騒がれている人の年齢が自分と同じであることを知った途端に、劣等感コンプレックスが刺激されて、自我存在が多少おびやかされていたことが判明するときもある。われわれがいらいらさせられるとき、われわれはなにかを見通せずにいるのだと考えてみると、ます間違いはない。自我の光のおよばないところで、なにかがうごめいているのである。

 

すべて創造的なものには、相反するものの統合がなんらかの形で認められる。両立しがたいと思われていたものが、ひとつに統合されることによって創造がなされる。

 

マリアは母であると同時に処女でもあるし

 

女性の場合も、母性に対して強い反発を感じる時期がある。そのような母性への反発が長くつづき、女性としても発達が遅滞する場合が考えられる。現代女性にとって、自分が女であることを受け容れることはなかなか困難である。

 ある二十代後半の女性は、ボーイフレンドと同棲したりはするのだが、結婚の意志はなかったし、子どもを産む気もなかった。母性を否定する女性は、しばしばエロスの力に圧倒される。彼女は結婚・出産を否定しつつ、次々と異なる男性と肉体関係をもつ。

 

いわば、人間は下界に向けてみせるべき自分の仮面を必要とするわけであり、それが、ユングの言うペルソナなのである。

 

 

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この図式に従って説明すると、西洋人は自我を中心として、それ自身ひとつのまとまった意識構造をもっている。これに対して、東洋人のほうは、それだけではまとまりを持っていないようでありながら、実はそれは無意識内にある中心(すなはち自己)へ志向した意識構造を持っていると考えられる。ここで、自己の存在を念頭におかないときは、東洋人の意識構造の中心のなさのみが問題となり、日本人の考えることは不可解であるとされたり、主体のなさや、無責任性が非難されたりする。

 

日本の文化が母性との結合を保存しつづけ、西洋人と比肩しうるような自我を確立してきていないことは、非常に特徴的である。といっても、このことは必ずしも否定的にのみ評価しているのではないことは、いままでの議論から解っていただけると思う.ユングの大半の努力は、西洋において確立された自我を、いかにして自己へと結ぶ付けるか、ということであったと言っても過言ではない。

 

実のところ、無意識の世界の無時間性という点に注目するならば、古いものの中に、まったく新しいものを発見することも可能であると思われる。

 

 

 

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