ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

『星の子(今村夏子)』

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「第三回 勝手に芥川賞選考会」を来週火曜(7/18)に控え、全候補作品を読みました。

今回はノミネート4作品と例年に比べて候補作品が少なかった。


2017年上期 候補作品

芥川龍之介賞|公益財団法人日本文学振興会

 

今村夏子さんは前回の『あひる』に続き、ノミネート。

 この人は、感性や生理の部分で社会とうまく折り合っていない、生きにくい人間(特に、子ども)を中心に描く作品が多い。

 今回のタイトルも「星の子」とな。まあ、あまりに無邪気で、大人を困らせる子どもが出てくるんだろうな、とか予測するだけで思いやられるわ。

 

父は、生まれてまもない我が子について抱える悩みを、会社でぽろっと口にした。たまたま父の話を聞いた同僚のその人は、それは水が悪いのです、といった。は?水ですか?水です。

 

父がもらってきた水は、湿疹や傷に効くだけではなかった。両親とも、この水を飲みはじめてから風邪ひとつひかなくなった。飲み水や調理用としても万能で、砂糖もみりんも入ってないのに、ほんのりと甘いのは、水自体が生きているからなのだそうだ。

 

次第に軽い吐き気がこみ上げてきたのは、まーちゃんの飲んでいるぶどうジュースのにおいのせいかもしれなかった。それは何度も借りるはめになった落合さんの家のトイレのにおいに、似ていなくもなかった。

 

「えーっ。だってあのときまーちゃん包丁持っておじさんのこと刺そうとしてたじゃん」

「うん、自分でもわけわかんなかった」

「おじさんびっくりしたと思うよー」

「おじさんとふたりで作戦考えてるときはうまくいくと思ったんだけどね…」

 

土曜日、殺されたくないばっかりに三時に駅の改札へいくと、すでにひろゆきくんは待っていた。

 

わたし、さっき、キスされそうになったんだ!と気がついたのは、家の近所の見慣れた児童公園の前まで歩いて戻ってきたときだった。吐き気がこみ上げてきて、危うくドーナツとメロンソーダを戻しそうになった。

気分が落ち着くまでベンチに座ってやり過ごし、家に帰ってすぐにお風呂に直行した。お風呂場のなかで、なぜか涙がぽろぽろでてきて止まらなかった。そのとき、ずっと前にまーちゃんと交わした会話がよみがえった。ねえ、キスしたことある?

 

ここ数年での雄三おじさんとの交流といえば、小学校と中学校の修学旅行の費用をだしてもらったときに、お礼の手紙を書いて送ったくらいだ。

 

バン!と南先生が両手で教卓を叩いたのと同時にわたしは顔を上げた。

先生はまっすぐにわたしの顔を見ていた。

みんなの視線がわたしに注がれていた。

「・・・今までがまんしてきたけど、さすがにもう限界だ・・・」

先生はいった。

「・・・あのな。いいか?迷惑なんだよ。その紙とペン。まずその紙とペンをしまえ。それからその水。机の上のその変な水もしまえ」

 

 

「待ってるほうがいいよ。じゃないとまたお互いにいったりきたりで一生会えなくなるかもよ

といってさなえちゃんは笑った。

「なんでそういうこというの?」

「え?」

「一生とか、おおげさなこと・・・」

さなえちゃんはきょとんとした顔で「ごめん・・・」といった。

「ごめん」とわたしもあやまった。「ごめんね、じつはここにきてから全然お母さんとお父さんに会えてなくて」  

 (宗教の合宿で長いこと親に会えずに心細くなっているところでの会話。合宿の前に、親戚からは高校は家から離れて、叔父の家から通わないかと誘われていた)

子どもってどこかで親に棄てられたときのことを、一緒に暮らせなくなったときのことを想像しては不安になるものだ。

 

 

最後には、父親と母親と落ち会い、星を見に行くシーンはほっこりとした安堵と、これが家族団らんの名残を楽しんでいるのではという淋しさとが同居する、いいシーン。

 

 

 

なお、本物の選考会は、7月19日(水)午後5時より築地・新喜楽で開催之予定です。