ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

『ドキュメンタリーは嘘をつく(森達也)』

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言い換えれば報道は、とても危なっかしいバランスの上に立っている。

自らが中立で公正であるとの強い思い込みは、自らが正義の側に立つとの思い込みにあっさりと短絡する。

 

 

自らが正義であると思い込んだメディアは暴走する。

 

 

 

主張は明快だし、歯切れも良い。その気になれば作品全体をひとつのスローガンに置き換えるくらいに、曖昧さや複雑さはきれいさっぱり削ぎ落とされている。

 

ボウリング・フォー・コロンバイン』は稀に見る傑作だ。論文としては優れている。でも(くりかえすけれど)、一個のドキュメンタリー作品としては、凡庸だ。なぜならば、イズムや主張に従属しているからだ。

 

銃を手放す覚悟を雄弁に語るのなら、そこに付随するマイケル・ムーアの不安や葛藤を僕は知りたい。雄々しいスローガンだけでなく、吐息や逡巡も垣間みたい。なぜなら、そこにこそ、等身大の「意思」が現れているはずだから。

 

 

キャメラの持つ加害性を自覚して、観察者ではなく当事者として作品を発表し続けている。  

 

ドキュメンタリーというジャンルは徹頭徹尾、表現行為そのものなのだ。

 

ドキュメンタリーが描くのは、異物(キャメラ)が関与することによって変質したメタ状況なのだ。

 (テクノロジーの進化は、カメラと認識させない「現実の記録」も可能にするわな。つまり、状況としては「盗撮」にちかいわけだけれども)

 

 

9・11同時多発テロ直後、歓喜するパレスチナの人々の映像が世界中に配信された。

 

実はあの映像にはまだ続きがあってさ、キャメラが引いてゆくと、喜ぶ人たちの周りには多くの野次馬たちが集まっていて、不思議そうに撮影風景を眺めているんだよ。おまけに画面の端にはディレクターらしき姿も映ってた。 

 

被写体はキャメラの前で作り話を演じる。そして嘘が多くなればなるほど、作り話は艶を増す。

→つまり、必死に自分を演ずることだって日常的にしているはずだ。自分はこうありたい、こういう風に生きてきた(はずの)自分は、こんな選択をするはずだ。こんなことをするはずだ。 

 

最後に情緒に溺れた。

 

 

この「後ろめたさ」や「無駄な煩悶」というネガティブな要素が、実はとても重要なのだと僕は考える。

 

わかりやすさばかりが優先された情報のパッケージ化をマスメディアが一様に目指す状況だからこそ、曖昧な領域に焦点を当てるドキュメンタリーの補完作用は、今後ますます重要な意味を持つ。

 

華氏911』は、確かにメディアを補完している。でも僕に言わせれば、隙間を埋めながら、善悪の構図をひっくり返しているだけだ。二元論はそのままだ。だから構造を変えられない。作品というよりも政治的アクチュアリティなのだ。〜ドキュメンタリーが本来持つ豊穣さに、決定的に欠けている。

 

 

編集には必ず意図がある。 

 

関係性を描くことがドキュメンタリーなのだ。

 

 

「脳障害でも、こうして頑張る人を伝えたかった」とでも言うのだろうか。確かにそのジャンルはある。否定はしない。でもそれは、僕の定義ではドキュメンタリーじゃない。情報だ

 

 

撮るという作為に対して自覚がないままに、事実という皮相的なものに従属したからだ。

 

 

エゴを全面的に工程するしかない。 

 

 

大衆というのは、分かりやすさを求めている。認識を変えたくない。

 

 

 

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