ここがパンチライン!(本とか映画、時々 新聞)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『ドキュメンタリーは嘘をつく(森達也)』

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言い換えれば報道は、とても危なっかしいバランスの上に立っている。

自らが中立で公正であるとの強い思い込みは、自らが正義の側に立つとの思い込みにあっさりと短絡する。

 

 

自らが正義であると思い込んだメディアは暴走する。

 

 

 

主張は明快だし、歯切れも良い。その気になれば作品全体をひとつのスローガンに置き換えるくらいに、曖昧さや複雑さはきれいさっぱり削ぎ落とされている。

 

ボウリング・フォー・コロンバイン』は稀に見る傑作だ。論文としては優れている。でも(くりかえすけれど)、一個のドキュメンタリー作品としては、凡庸だ。なぜならば、イズムや主張に従属しているからだ。

 

銃を手放す覚悟を雄弁に語るのなら、そこに付随するマイケル・ムーアの不安や葛藤を僕は知りたい。雄々しいスローガンだけでなく、吐息や逡巡も垣間みたい。なぜなら、そこにこそ、等身大の「意思」が現れているはずだから。

 

 

キャメラの持つ加害性を自覚して、観察者ではなく当事者として作品を発表し続けている。  

 

ドキュメンタリーというジャンルは徹頭徹尾、表現行為そのものなのだ。

 

ドキュメンタリーが描くのは、異物(キャメラ)が関与することによって変質したメタ状況なのだ。

 (テクノロジーの進化は、カメラと認識させない「現実の記録」も可能にするわな。つまり、状況としては「盗撮」にちかいわけだけれども)

 

 

9・11同時多発テロ直後、歓喜するパレスチナの人々の映像が世界中に配信された。

 

実はあの映像にはまだ続きがあってさ、キャメラが引いてゆくと、喜ぶ人たちの周りには多くの野次馬たちが集まっていて、不思議そうに撮影風景を眺めているんだよ。おまけに画面の端にはディレクターらしき姿も映ってた。 

 

被写体はキャメラの前で作り話を演じる。そして嘘が多くなればなるほど、作り話は艶を増す。

→つまり、必死に自分を演ずることだって日常的にしているはずだ。自分はこうありたい、こういう風に生きてきた(はずの)自分は、こんな選択をするはずだ。こんなことをするはずだ。 

 

最後に情緒に溺れた。

 

 

この「後ろめたさ」や「無駄な煩悶」というネガティブな要素が、実はとても重要なのだと僕は考える。

 

わかりやすさばかりが優先された情報のパッケージ化をマスメディアが一様に目指す状況だからこそ、曖昧な領域に焦点を当てるドキュメンタリーの補完作用は、今後ますます重要な意味を持つ。

 

華氏911』は、確かにメディアを補完している。でも僕に言わせれば、隙間を埋めながら、善悪の構図をひっくり返しているだけだ。二元論はそのままだ。だから構造を変えられない。作品というよりも政治的アクチュアリティなのだ。〜ドキュメンタリーが本来持つ豊穣さに、決定的に欠けている。

 

 

編集には必ず意図がある。 

 

関係性を描くことがドキュメンタリーなのだ。

 

 

「脳障害でも、こうして頑張る人を伝えたかった」とでも言うのだろうか。確かにそのジャンルはある。否定はしない。でもそれは、僕の定義ではドキュメンタリーじゃない。情報だ

 

 

撮るという作為に対して自覚がないままに、事実という皮相的なものに従属したからだ。

 

 

エゴを全面的に工程するしかない。 

 

 

大衆というのは、分かりやすさを求めている。認識を変えたくない。

 

 

 

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