ここがパンチライン!(本とか映画、時々 新聞)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か(平田オリザ)』

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4年前くらいに読んでいて本棚にささっていたものを再読。

こんなにも太字ばかりの本を、まだ取り扱っていなかったなんて。。。

無能。。

 

コミュニケーションにおける無駄(ノイズ)の大切さや、学校の授業はメチャクチャに教えた方がいい」といった 

 

まさに、メチャクチャに、ノイズを含んで、この本は構成されている。

(まえがき)

 

彼の家では、典型的なダブルバインドのコミュニケーションが頻繁に行われていて、「まあ勉強なんてできなくっても、身体だけ丈夫ならいいんだから」と言われながら、通信簿を持って行くと、「何だ、この成績は!」と突然怒られるような環境で育ったのだ。

ー〜ー〜ー

いま、日本社会は、社会全体が、「異文化理解能力」と、日本型の「同調圧力」のダブルバインドにあっている。

 

私が公教育の世界に入って一番驚いたのも、実はこの点だった。教師が教えすぎるのだ。もうすぐ子どもたちが、すばらしいアイデアにたどり着こうとする、その直前で、教師が結論を出してしまう。おそらくその方が、教師としては教えて気になれるし、体面も保てるからだろう。

 

 

冗長率」という言葉がある。

 

たとえばモロッコという国はワールドカップの開催国に立候補するほどの立派な中進国だが、中学校以上の授業は基本的にフランス語で行われていると聞く。

こういった環境では、なかなか民主主義は育たない。言語の習得が、社会的な階層を、そのまま決定づけてしまうから。

 

日本語には対等な関係で褒める語彙が極端に少ない上に向かって尊敬の念を示すか、下に向かって褒めてすかわすような言葉は豊富にあっても、対等な関係の褒め言葉があまり見つからないのだ。

 欧米の言語ならば、この手の言葉には、まさに枚挙にいとまがない。wonderful,marvelous,amazing,great,lovely,splended・・・。

 

 

言語は保守的で、変化を好まない。

ー〜ー〜

言語的な権力を無自覚に独占している年長の男性が、まず率先してこの権力を手放さなければならない

 

 

だが、言葉の観点から言えば、「対話」の言葉の欠如がファシズムを招いたのではないかと想像することはできないだろうか。

 

 

コンテクスト=その人がどんなつもりでその言葉を使っているかの全体像。

 

みなさんに小学校一年生くらいの子どもがいるとしよう。その子が、学校から嬉しそうに走って帰ってきて、

「お母さん、お母さん、今日、ぼく、宿題やっていかなかったんだけど、田中先生、全然怒らんなかったんだよ」

 と言ったとする。私は学生たちに問いかける。

「さあ、皆さんはいいお母さん、いいお父さんです。何と答えますか?」

 

ー〜ー〜ー

おそらくその子が、走って帰ってきてまで伝えたかったのは、

「田中先生は優しい」

「田中先生が大好き」

 という気持ちだろう。そうでなければ、「嬉しそうに走って帰ってきた」という理由を説明できないから。 

 

一般に、子どもに接するときの優れたコミュニケーションとは、子どものコンテクストを受け止めて、さらに「受け止めているよ」ということをシグナルとして返してあげることが肝要だと言われている。 

 

なぜなら、子どもに代表される社会的弱者は、他者に対して、コンテクストでしか物事を伝えられないからだ。