ここがパンチライン!(本とか映画、時々 新聞)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『おらおらでひとりいぐも(若竹千佐子)』

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孤独と対話がテーマ。

このように、脳内で何人かの自分が対話している老人は多いと思う。

 

著者は74歳で文藝賞初受賞。

老女の脳内で繰り広げられる対話と追憶。

年の功らしく、作中に太字になりそうな部分は多い。

 

 

桃子さんはさっきから堰を切ったように身内から涌き上がる東北弁丸出しの声を聞きながらひとりお茶を啜っている。ズズ、ズズ。

 

囲っていた悲しみが飛び出した。

 

わたしという言葉を使ったら、自分の住むこの町の空気というか風というが、おらを取り囲む花だの木だの、人だの人のつながりだのを、足蹴にするような裏切りの気分が足首のあだりから、そわそわど立上がってくるようでおぢづかね 

 

若さというのは今思えばほんとうに無知と同義だった

 

結婚と同時に家を離れた直美といつごろからか疎遠になった。きっかけは何であったか思い出せない。仕方ないと思っていた。

 

娘の電話ぐらいで大喜びする自分が照れくさくて無表情を装っていたのが、ここにきて耐え切れなくなっている。 

 

流れる時に容赦はないのだった。桃子さん、自分の老いはさんざ見慣れている。だども娘の老いは見たくない。

 

フリルのいっぱい付いたスカートは、小さいころの桃子さんの夢だったのだ。ーーーーーーーー期せずして桃子さんも娘を自分好みに思い通りに操ろうとしたのだ。

 

「だから、おれおれ詐欺になんか引っかかるのよ」

 →娘からの、破壊力抜群の言葉。これ一つで多くの状況を物語っている。

意識と記憶の混濁...。

 

たいていのことは思い通りにならなかったじゃないか、それでも何とかやって来られたじゃないか、

 

大勢の母親がむざむざと金を差し出すのは、息子の生に密着したあまり、息子の生の空虚を自分の責任と嘆くからだ。それほど母親として生きた。

母親としてしか生きられなかった。

 

自分がやりたいことは自分がやる。簡単な理屈だ。子どもに仮託してはいけない。仮託して、期待という名で縛ってはいけない。

 

 

今の親は自分の老いどころか子の老いまで見届ける。

 

飼いならしたはずの孤独が暴れる。

 

そうやって桃子さんは気付くのである。時間がたてばさみしさなどというものは薄紙をはがすように少しづつ解消するはずなのだ。

 

 

豊かになることがそのままきらきらした目標だった。

 

 

人は独り生きていくのが基本なのだと思う。そこに緩く繋がる人間関係があればいい。