ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

『文学の淵を渡る(大江健三郎×古井由吉)』

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先生は聖書の同じところに即して語られました。「娼婦と結婚する」という言葉がありますでしょう。僕たちキリスト教の外側の人間は、「娼婦と結婚する」という言葉を見ると、まあ比喩として考えます。ところが、門脇神父のようなキリスト教の専門家は、それをそのとおりに読み取られるんですね。

 

 

日本の小説の中で、どちらかというと私小説系で、主人公が自分のことも思えなくなる、ましてや他人のこととか風景のことなどは見るゆとりもない、そんな真っ暗なところまで自分を追い込んでがんじがらめにしておいてから、いきなり非常にいい風景描写が出てくることがある

僕はああいうのを読むと、これは死者の目じゃないかと思うんです。死んでいる人間の目に映る世界。

 

 

例えば「花」さんが話を聞いてもらえると知った後に華やいで、色気が出てきます。立ち居振る舞いから声まで違ってくる。これは一種の情交です。こういう微妙なところは、日本の短編の高い水準をあらわすんだけど、弱みでもあるのかもしれません。

 

 

明治の人たちの教養の背景には、いうまでもなく漢文があります。

 

 

確かに小説を書く上で、のぞきをする人間のアリバイも示しているところがあまり尊敬できないわけです。例えば、こういう一行がある。「後の光景を、私は目撃しなかった。全然見なかったわけではないが、ほとんど見なかった。」この小説には大きい問題が提出されている。

 

 

僕も、自然主義私小説はまた違うものなのではないかと思います。明治の自然主義文学の<わたくし>は、他者を含んでる。ところが大正に入るとだんだんラディカルになってくるんです。<わたくし>が縮まってくる。

 

 

大江 私は、古井さんの書かれた「こころ」解説が好きなんです。特に最後の段落。

「無用の先入観を押しつけることになってもいけないので、この辺で筆を置くことにして、最後に、これほどまでに凄惨な内容を持つ物語がどうしてこのような、人の耳に懐かしいような口調で語られるのだろう。むしろ乾いた文章であるはずなので、悲哀の情の纏綿たる感じすらともなう。挽歌の語り口ではないか、と解説者は思っている。おそらく、近代人の孤立のきわみから、おのれを自決に追い込むだけの、真面目の力をまだのこしていた世代への。

 

 

「こころ」のみならず、漱石は自決、自殺する人間を何種類も書いている。私はそれがとても大切なことなんじゃないかと思うんです。漱石は、自殺してしまわざるをえないところに追い込まれていく人間を、深い共感を秘めながら追いかけていた代表的な小説家、というのが私の印象なんです。

 

 

 

私も大江と同じである。

最後のところで、人間の理性を信じてはいない。

 

 

 

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