ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

『年表で分かる現代の社会と宗教』

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社会学者の見田宗介さんが非常に重要なものの見方を提示しています。ある時代をうまくとらえるためには、その時代に「現実」という言葉の反対語としてどういう言葉が想起されたのかを考えることによって、その時代の相みたいなものが見えてくる、と。

 

日本がどんどん右肩上がりになった時代、この時代に「現実」の反対語として想定されたのは「理想」という言葉でした。

1970年代の終わりから95年あたりまでの次の20年間は、この「現実」の反対語は「理想」ではなくなって「虚構」という言葉になっていった。

 

つまり、95年を境にして、日本はどういう問題に直面したかというと、極めて宗教的な問いですね。生きているという実感がわかない。そのために、どういうふうにこの生を支えたらいいのか。その課題に出会ったとき、私たちはオウムを突きつけられ、言葉を失った。

 

イランがアメリカの支援のもとに近代化しようと、資本主義経済を急激に導入したことによって、古き良きイスラムの伝統が失われてしまうという反発がイラン・イスラム革命につながっています。

 

自分はイスラム教徒なんだという自覚は、イスラム世界の中で暮らしている限りでは生まれないんですね。

 

この数十年の、日本だけではなくて世界的な宗教動向の1つは、個人化した宗教意識、組織をともないわない宗教意識や宗教のかたちが広く台頭してきた、

 

 

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我々の前の前の世代などでは、お天道様が見ているからとか言いました。あなたの善行はだれかが見ているからという、より大きな支えがあればよいけれども、そうした「大いなるもの」の世界が縮減してしまい、目に見える人間関係だけが生きる世界になってしまった。 

 

我々日本人の自己肯定感というのは、むちゃくちゃ低いんです。なんでそれでも暮らせているのかというと、私たちの属している集団がそこそこうまくいっているという安心感があったからですね。

 

丸山真男の『日本の思想』の中に、「『である』ことと『する』こと」という有名な章があります。

日本人の場合は、「する」ことよりも「である」ことのほうが決定的に重要である。東工大で何をするかよりも、東工大に入った、東工大生「である」ことという集団の帰属のほうが重要。

 

その間に日本人は個というものを突き詰めてこなかった。

 

ところが日本では、あの集団に属していれば自分は救われるんだという発想が私たちの中にはしみついていて、それはナショナリズムにつながっていきます。

 

いわゆる反社会的な宗教は「生きづらさ」や「むなしさ」が前面に出てきます。

 

ボランティアといった社会参加に、「生きづらさ」をかかえた若者が多く参入している。

 

宗教の核心をなすものとして必ず論じなければいけないのは、「超越性」の問題です。

 

我々羊は、外の人が意味をつくりだしてくれて、そっちのほうがいい、あっちのほうがいいというふうに言ってるだけの群れている羊だけど、そのなかで、自分で意味をつくりだしていく存在こそがツアラトウストラであると言うわけです。

 

なぜ日本では短期的な評価というものに振り回され、そして、良き種をまくという、その幸せに気づけないんだろうか。

 やはり、ある意味で宗教というものは、世代を超えた良き種をまいていく連鎖というものを確信していくということでもあるわけで、そこに超越性がある。

 

この万物の有限性という認識をもった瞬間、私たちは対の概念として無限という観念を同時に手に入れています。

 

福田恆存という保守主義者がいます。福田恆存という人は、無限と有限という二元構造を踏まえて世界を見なければいけないと考えています。人間がパーフェクトな世界をつくれるというような理性に対する過信をもってはならないというのが保守思想というものの非常に重要な中核なんですけれど、そのためには絶対者という観念を捨ててはならない。絶対者に対して私たちは有限な存在であり、神ではないのだからパーフェクトな世界はつくれない。

 

歴史のふるいにかけられて残されてきた常識や良識を大切にしながら、少しづつ変えていくことが大切なのだ。

 

『人間、この劇的なるもの』という名著があります。そこで福田恆存は、人間は演劇的な動物であると言っています。人間はどういうときに自分の意味を獲得するのか。それは何からも自由になった瞬間ではない。そうではなくて拘束されているということである。自分がいなければ、この場が回らない。自分がいなければ停滞する。わたしがいるから、この家族は安定している。何らかの、そういう私というものを、ある種の「役割」によって認識する。

 そして人間は、その役割を演じて生きている。役割を演じ切れたときに、その役割を味わう自己というのがいる。

人間というのは、永遠にそうやって自分というものを獲得していく演劇的な動物である、というのが、福田恆存が演劇論の中から人間というものを構成している論理です。

 

80年代、オウム真理教が渋谷のマンションでヨガ道場として旗揚げするのですが、

 

それでいま中国が一番恐れているのは、SGIが中国で布教活動を始めることです、

見返りは、公明党がいつも中国にものすごく歓待されるでしょ。要するに日中関係が悪化しても、そのときに間を取り持つのは創価学会であり、公明党だと。

 

江戸時代の商品を、何の目覚めもなく今そのまま売っていて、まだそれが売れると思っている、その精神こごがおかしい

 

 

宗教が宗教だけに純化していくことに宗教研究者としては一種の理想像みたないものがあるのですが、同時に危険性も感じます。やがて先細りするのは明らかで、どういうふうに社会とつながりをもつか。

 

考えてみれば、日本の天皇って宗教者ですから。神道におけるトップですから。

 

平成11年の即位10年のときの記者会見で陛下が、障害者や高齢者、災害を受けた人々、あるいは社会や人々のために尽くしている人々に心を寄せていくことが務めであるとおっしゃったのは、不遜な言い方ですけれども、本当にご自身の役割というものを端的に示されたお言葉じゃないかなとわたしは思います。

 

 

 

 

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