『クロマグロとシロザケ 〜東京夜話〜(いしいしんじ)』
「つらいのはな、速く泳げないことなんだ。自分が泳ぎたい速度で泳げなけりゃ、泳いでるって気にならないだろう」
「なにかやらなくっちゃ、って感じを思い出すね」彼は巨体を上下に揺らした。「ずいぶん長い間、一匹だったんだ。一匹だと、やっぱり自分はわからないもんだな。自問自答ってのは要するに、逃げなんだよ」
表層と深層で、海流の向きは往々にして違うものなんだ。
「ねえ、そんなに落ち着きがないってことは」魚は嬉しそうに言った。「あなたマグロね。ねえそうでしょう。ほんとにずっと泳いでいるのね」
「うちらには実感ないけどな、このあたりの水温は、もうシャケには無理や。知ってるか。あんたの彼女は、もっと北の海底に一匹だけキャンプ張って、アホなマグロに会いにこのあたりまでわざわざ下ってきとんのや。あの子にとって、どういうことかわかるか。あの子はシャケなんやで。マグロやないんやで。寒い寒い、川の生まれなんやで」
「ぼくだって、サケになりたかった」ぼくはつぶやいて、泳ぎはじめた。彼女の冷ややかな肌の感触がまだえらに残っていた。たぶん一生消えない、と思った。