ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

「芸術祭 噴き出た感情(黒瀬陽平、宮台真司)」(2019年8月10日付 朝日新聞)

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黒瀬陽平

「日本人の心」や「先祖」を持ち出し、公金投入を理由に展示を中止すべきだと訴えた政治家は節度を失っています。金は出すが口は出さないという姿勢が筋で、そうでないとなんのために芸術監督がいるのかわからない。

 

 

騒ぎの中心の「平和の少女像」には日本政府のみならず、問題にきちんと対応してこなかった韓国政府への講義も含まれますが、騒いでいる人の大半は作品のメッセージを理解してないし、しようとしない。

 

芸術とは本来、作品を通じて様々な対話を生み出し力を持っています。テーマやモチーフがどのようなものであろうと最終的には観客が作品を通して問題の内部に入り込み、感じ、考えるための仕掛けが必要です。

 

見る側の想像力をふくらませ、もともとあったはずの分断を乗り越えていける「動線」が引かれていないといけない。展覧会や芸術祭というパッケージも、その「動線」の一部なのです。

 

今回の事件を受けて、観客と作品双方の多様性を守りつつ、「話が通じる」空間としての芸術祭をいかに設計してゆくか、現実的な議論をするべきでしょう。

 

 

宮台真司

 

警察と連携、別会場でボディチェックなど対処法を編み出すべきなのに、それをせず3日間で中止したトリエンナーレ実行委員会や津田大介芸術監督は未熟過ぎます。

 

今回の問題の本質は、税金が使われて公共の場で展示される「パブリックアート」の矛盾です。

 自由な表現としてのアートは、200年前に「社会の外」を示すものとして成立した。作品の体験後に日常の価値に戻れないよう「心に傷をつける」営みとして、自らを娯楽から区別してきました。

 

住民や政治家は日常になじむものを求め、「心に傷をつける」非日常的作品には抗議しがち。アートとパブリックのねじれです。

 

「表現の不自由展」なのに肝心のエロ・グロ表現が入らず「看板に偽りあり」です。特定の政治的価値に沿う作品ばかり。

 政治的価値になびけば、社会の日常に媚びたパブリックアートに堕する。「社会の外」を示すから、政治的対立を超えた衝撃で人をつなげるのです。政治的文脈を無視してもいいけれど、そこに埋没したらアートではない。

 

トリエンナーレ実行委も津田氏も、アートの伝統と、それに由来するパブリックアートの困難に無知だったようです。

 

 

芸術祭継続に抗議した連中は無知で愚妹で愚かだ。

しかし、津田氏、実行委の面々も思慮不足で未熟だったとする宮台真司の指摘には、首肯せざるを得ない。