ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

「絶望に追い込まぬため_藤田孝典氏、斎藤環氏」(2019年6月14日付 朝日新聞)

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藤田孝典氏・ほっとプラス代表理事

「一人で死ね」という怒りは自然な感情だと思います。しかしその怒りをそのまま社会へ流して憎悪が広がれば、孤立感を抱く人たちが「やはり社会は何もしてくれない」と追い詰められるかもしれない。いまある分断が広がるだけです。

 

川崎の事件も、元農林水産事務次官の事件も、日本社会に根強い「一つだけの価値観」に苦しんだ末の犯行であるように思えてなりません。

 「男は働いて稼ぐもの」「家庭問題は自分で解決する」という価値観は、いまだに社会規範のように捉えられています。

 

 

斎藤環氏・精神科医

きこもりの当事者は、いわば自分自身を社会から排除している人々です。自己否定的で、自身を「価値のない人間」と思い込んでいます。今回の事件を受け、ある当事者は「私は社会に要らない存在だから死んだほうがいい」と言いました。「私も親に殺されるかもしれない」とおびえる人をもいます。いま社会に必要なのは「死ぬな」というメッセージだと思います。

 

特定の人々を偏見で排除するのではなく、社会の同じ一員として向き合う。たまたま困難な状況にある、まともな人というまなざしで見ることが、必要ではないでしょうか。

 

 

小田嶋隆氏・コラムニスト

「犯人を擁護したのではない。それが不安定な感情をかかえた人への呪いの言葉になることを憂慮したのだ」とフォローするツイートを発信しました。

 

「人間の生の感情を重視し、そこに理性や倫理といった基準を持ち込むことを憎む」彼らは、むしろ「反知性主義者」と呼ぶべきなのかもしれません。

 

一方、この事件で対照的な言葉を発したのが松本人志氏です。

犯人を「不良品」にたとえました。人間を工業製品の文脈でとらえている意味で、ナチスドイツの優生思想につながる言葉です。しかし、彼の言葉は凶悪犯を罵倒しただけで、中高年のひきこもりを攻撃したわけではない、と周囲の援護を受け、本人も謝罪しませんでした。

 

思うままに怒りを発散できていた今回の流れのなかで、「少し落ち着こうよ」といった藤田氏の言葉は、正論であるがゆえに、かえって怒っている人々の逆鱗に触れました。逆に、単純な怒りを代弁する形になった松本氏には喝采が送られます。

「ぶっちゃけた本音を言えるヒーロー」を持ち上げる下地があるのでしょう。 

 

この国では今、差別的言辞で非難されるリスクより、正論を口に出したことで罵倒されるリスクのほうが大きくなっています。リンチに熱狂する群衆をたしなめると今度はその人間が標的になる。そんな気持ちの悪い国に変わる前兆を垣間見た気がしました。