「ア・ピース・オブ・警句 (小田嶋隆)」
昔、吉本隆明すごいなあ、と思っていたけれど、
小田嶋さんは、より、卑近な問題を平易な言葉で洞察する街場のソクラテス。
いや、お茶の間の(テレビの前の)巨人。
小田嶋隆さんの言説を信用している。
日本人は誰も責任を取らないで済む対応の決済を好む。
というよりも、われわれは責任を分散させるために会議を催している。
少子化対策として、三世代同居を推し進めるみたいな住宅政策が、本当に実行に移されるとは思っていなかった。(日本会議のパンフレットの中に、わが国の「婚外子の比率の低さ」を示すデータが出てくる)
我々は「起こってしまったこと」には反対しない傾向を備えた国民だ。
「いまこうしてあること」には、ほとんどまった疑問を持たない。私たちは、現状肯定的な国民なのだ。
ひとつ例を挙げれば、
テロについて、もっぱらその発生原因に注目してものを言っている人間と、その対策について語っている人間の話は、決して噛み合わない。
別の言い方をすれば、この問題は、「どうして日本のおっさんはダメなのか」という問いとしてでなく、「どうして日本社会は男をダメにしてしまうのか」という問題として考えた方が建設的だということだ。
彼らは、長谷川豊氏の失敗を言葉のチョイスの問題だと、本気でそう考えている。
彼ら本音主義者たちは、市場主義と競争原理と弱肉強食の自然淘汰こそが、真に世界を動かしているリアルな動作原理であり、効率を正義とする鉄血のリアリズムを貫徹しなければならないと信じる。
そのため、彼らは本来は経済の論理であり商品を扱うための原理である市場原理や競争原理を、人間の生命にそのまま適用してしまう。古くなった部品を廃棄し、壊れた歯車を捨てるみたいにして、年老いた人間や障害を持った人間を排除する思想が誕生する。
弱い者に手を差し伸べたり、病めるものを癒すために時間と費用を費やすことは、世界の効率化を妨げ、淘汰原理を裏切る重大な違反ということになる。
教育勅語は、単に効力を失ったのではなく、より積極的に、教育現場から「排除」され、「追放」された過去の亡霊だ。
"個"よりも"集団"が優先されなければならず、
東アジアの政治家にありがちな身内への甘さが招いた不祥事
→自らの過ちを認めないために行政を歪め、事実を隠蔽し、現実に直面しないために国会を歪めている。
→ミスを認めず改めないばかりか、ミスを指摘する人間を攻撃している
そういう子供たちは、やがて文章を読解する作業そのものを憎むようになり、最終的には論理を操る人間に敵意を抱くタイプの大人に成長する
政治向きの発言や議論を「退屈」とみなす態度こそが「クール」な現代人の証であるマナー
言葉というコミュニケーションツールへの基本的な信頼感が損なわれていることの原因の一部は、
困ったことや腹の立つことに対して、人々が声をあげなくなれば、その分だけ世界は確実に窮屈になる
誰かを落とすための一票だってある
これが、戦略的投票というやつだ。
「論争的な場所」に関与せねばならない機会を何よりも恐れているからだ
無駄な努力は人間を浅薄にすると思っている。
有害だとも考えている。