ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

「遅いインターネット (宇野常寛)」

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平成という「失敗したプロジェクト」。

「平成」という改革のプロジェクトはなぜ失敗したのだろうか。

 

リオ五輪閉会式の引き継ぎマリオ。)ここにはなにひとつ未来がない。

日本は過去にしか語るべきもののない国になってしまったことを告白しているように思えた。

 

あの新国立競技場は、かつての戦艦大和のようなものだ。

 

オリンピックという他人の物語を語るよりも、

自分の物語を自分で走ることのほうに関心がある。 

 

フェイクニュースを人々が信じるのは、それが正確な情報だと判断するからでなく、それを信じたいからだ。 

 

村上春樹「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による「精神の囲い込み」のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。いろんな檻というか、囲い込みがあって。そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」

 

民主主義という名の宗教は、ーーー、新旧の世界の分断を加速する装置にしかなっていない。民主主義を改良する必要がある。

 

民主主義が自由と平等に資する可能性が低くなったいま、ポピュリズムのリスクを相対的に低減できる意思決定の回路を導入することだ。

 いま必要なのはもっと「遅い」インターネットだ。

 

他人の物語に感情移入することよりも、自分の物語を語ることの快楽が強いことに気づいてしまった。「他人の物語」を享受することによって個人の内面が醸成され、そこから生まれた共同幻想を用いて社会を構成してきた。

→フェスの動員は伸びる。21世紀は「自分の物語」が台頭する時代なのだ。人々は自分だけの体験を求めて現場に足を運び参加するようになる。

虚構そのものの弱体化。 70年代、革命を起こして(政治的に)世界を変えることから、(文化的に)自分の内面を変えることで世界の見え方を変えることへ...

 

 

思考の補助線として見田宗介は戦後日本史に「反現実」を措定した。

理想と現実、夢と現実、虚構と現実 を対置した。

大澤真幸は「虚構の時代」の終わりを1995年に設定した。

 

世界を視る目が養われていなければ、たとえ世界の果てまで旅しても何も見つけることはできないのだ。

 

ディズニはー、砂糖菓子のように甘い多文化主義の夢を見せているのだ。

 

もし"民主制"になんらかの価値があるとすれば、それは崇めなくてもよいからだ。

 

 

 

後編は<吉本隆明篇>で、別ポストに。