『短冊流し(高橋弘希)』
会社の先輩から勝手に「芥川賞選考会」をやると言って社内便で送られてきたので読む。図らずもナオコーラの同じ候補作品と同じ場面や状況の設定があった。それも時代か。
子どもの不調から始まる暗くて短い話だ。
物語の主体である「私」は、徹底して観察者である。
健康思考で本音主義なタイプの現代人は、進んでは読まないだろう。
読んでもいいことは、たぶんない。
「パパとママはしばらく別々に住んでみようと思うんだ。少し仲が悪くなってしまってね。今は離れていたほうが、パパとママの為にも、綾音や寧々の為にも、いいと思うんだ。〜」
妻にザルの場所を教えてもらうのは癪だった。結局は菜箸を使い、無理に麺を掬い上げ、皿に盛った。
結局、気休めに包帯を巻いて、棘はそのままにしておいた。綾音が眠ったら、その隙に包帯を解いて、こっそり棘を抜いてしまおう。
綾音が瞼を開いていたのは,本当に短い時間だった。やがて綾音の瞳は、日向色の目蓋に鎖されていった。〜
綾音がもう心を鎖してしまったことが、私の身体を通して、確かに伝わってきた。
彼の「冗談」という言葉の使い方に違和感を覚える。このセレクトセンスは意外であるがゆえに何か別の純文学的意図があるのか勘ぐってしまう。
「意識がなくても、ちゃんと声は聞こえていますから。」
看護婦はそんな冗談を言いながら、病室を去っていった。
アラームを止める。パパが来てくれて嬉しいんですね、そんな冗談を言って、看護婦は病室を去っていった。
いずれも、 冗談を言っているのは看護婦である。
しかし、観察者である私がそれを「冗談」と認定すると、看病する者や快復を願う者の信じるものや願うものはどうなってしまうのか。
このことに意識的であればそれはセンスがないし、無意識であれば作家としては失格だろう。
まあ、受賞はないな。