ここがパンチライン!(本とか映画、時々 新聞)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『あひる(今村夏子)』

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第155回(16年夏 7月19日決定) 芥川賞候補作。

 「勝手に芥川賞選考会」での講評と、ここ(ブログ)での”いい悪い”はもちろん判断基準とそのレベルが異なる。「勝手に選考会」の3人の選考委員のうち、この作品に×をつけた委員は2人いた。彼らは端的に「幼稚であり、小学校の国語の教科書に載っているレベルの小説」だというのだ。

 確かに一見すると習作っぽい。しかし果たして本当にレベルが低い作品なのだろうか。僕はいくつかの箇所で深読みしていて、例えば、”家族や近所の子どもの予定調和的なものを打ち破っていたり”、吉田修一受賞の際の村上龍*よろしく”何かが起こっているかもしれない不安”みたいなものを感じ取っていたからだ。

 *第127回芥川賞を「パークライフ」で受賞したときの村上龍選考委員の講評。「小細工や借り物のエピソードが一切なかった。」「作者は意識して偽物の緊張や恥ずかしい小細工を避けたのだ。その結果、吉田氏の作品は「何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていない」という、現代に特有の居心地の悪さと、不気味なユーモアと、ほんのわずかな、あるのかどうかさえはっきりしない希望のようなものを獲得することに成功している。」

 

実に味気ない行為だが、作品上のエピソードというか要素だけ箇条書きにすると、

・あひるを飼っていると近所の子どもたちがひっきりなしにやってきて賑やかでうれしい

・”あひる”はすぐに衰弱して、病院に入れて数日するとピンピンになって戻ってくる。

・子どもたちに喜んで欲しいあまり、客間に上げてお菓子を出したりTVゲームを買ったり、もてなすようになる。

・子どもたちは自由にやるようになる。家族たちは戸惑いを感じている。

という感じ。

 パンチラインだけではこの作品世界と評価は伝えづらく、残念だ。おそらく受賞とはならないだろうが、ぜひともパッケージで読んでみて欲しい。

 実際の芥川賞選考委員は何と言うのだろうか。そういう意味でも芥川賞の発表号(文藝春秋)が楽しみである。

 

 

(子どもたちに人気の我が家のあひるが次第に元気なく衰弱していった。見てられなくなった両親が病院に連れていき、数日経つとまた元気な姿を見せてくれたのだが・・・)

おかしい。

これはのりたまじゃない。

わたしは隣りに並んで立っていた父と母の顔を見上げた。

「どうしたの?」

父と母の声が揃った。二人とも不安気な目でわたしを見ていた。

のりたまじゃない、という言葉がのどまで出かかった。本物ののりたまはどこ行った? 

 

 

真夜中に突然やってきて、食べるだけ食べたらサッサと帰っていった不思議なお客さん。名前も知らない。どこの誰かもわからない。でもどこかで見たことがあるような気が、しないこともない・・・。

彼は何者?

 〜〜

一晩中、思いを巡らせた結果、のりたまのくちばしに生クリームがついてないか、確かめずにいられなくなったのだ。

 

 

「そうよ。この中で眠ってるのよ」

「三びきとも?」

母は返事に詰まった。

「一ぴき目も二ひき目もこの中にいるの?」

「なあに?」

「しんだの三びき目でしょ」

「お祈りしなくちゃね」

と母は言い、女の子から視線を外すと、目を閉じてお経を唱えはじめた。

「ねえねえねえ」

 ここいちおこの小説のパンチライン

 

 

人は、自らの願望や望みを常態化させることで少しづつおかしな存在に、おかしなことをやるようになっていくんじゃないか(本人にとっては当たり前でも)。それはあるいは他人からは狂気と言えるくらいに。

我々は、しばしば年老いた人間たちにそういう部分を認め、長く生きてるとしょうがないことだよね、と思っている。だいたい。