『影裏(沼田真佑)』
今日の 芥川賞受賞作発表の前に上げておくんだった。
先ほど、深夜のニュースで作者と受賞作の短評を聞く。
「震災小説」と説明されていた。
記者会見での質問にあったのだと思うが、「自分は岩手に住んでいるので、禊のつもりで書いたつもりが、ないわけではない」という回答だけ切りとられていた。
作者の声も、気持ち苛立ちの感じを含んでいたように感じたのは気のせいだろうか。
なるほどう。そうか。そう言い表されてしまうのか。
確かに、作中に津波に関する描写もあり、そのことが登場人物に直接影響してくるわけだが、その人物の大きなものの崩壊(カタストロフ憧憬みたいなもの)に繋がっていく部分はあるのだけれど、その4字で表されてしまうことの簡単さ
というか便利さ(それはあたかも原発が簡単に取り出せる電力であるかのように)に抵抗を覚えた。変な話だが、そう称されてしまうことでこの本はある程度の認識を抱かれて売れないのだと思う。
我々「勝手に芥川賞選考会」でも、受賞作の一つとして推された作品(もう一つの青春小説「星の子(今村夏子)」とダブル受賞ではあったが)。
釣りを通じて親交した、「何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすい」日浅という男の謎めいた不気味さと不確かな友情(あるいは恋慕)を描いた作品だ。
そもそもこの日浅という男は、それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた。
どんなことを喋ったのだったか、初めて交わした会話の内容はおろか、その印象さえ、わたしは忘れてしまっている。
けれどこうした親密なつき合いのうちにも、日浅のそのある巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向はいっこうに薄れる気配がなかった。
現にようやく目的の釣り場に到着しても、頭上高くにひろがる杉の穂に、竿先が触れない程度には注意を払いながらも、内心はまったくうわの空であるらしい。黙っていると、このまま延々と日浅は水楢や、ほかにもまた橡や白柳といった愛着深い倒木の追想に耽り釣りどころではなくなってしまう。
→改めてここの描写なんて書き写して思う。こんな人間やゔぁいわ。精神構造、崩壊してるかも。。。
自分の川を発見したのは五月だった。
アパートから、自転車でも十分足らずの近距離に流れる里川である。
→そう、主人公はとにかく釣りにのめりこむ。首都圏からの転勤を言い渡され、釣りが全ての生活になってしまっている。それくらい釣りには魅力があるんだ。コミットしてしまうものなんだ。中国人も古い諺で言っている。「一生を楽しみたいなら、釣りを覚えなさい」みたいな。
雨の日に遊園地に出かけるような、心もとない気持ちを抱えて、わたしがこの川原に到着したのは六時過ぎだった。
→こうした不安げで不穏なイメージをまとう比喩や表現はそこかしこにあった。
その日は朝からめずらしいたよりが連続してあった。岩手への異動が本決まりになった二年前、気詰まりな対話を重ねた末に別れてこの方音信がなかった副嶋和哉から、パソコンにメールが届いた。
→読者は誰もがこのあたりで一回「?」が点滅。もう一度読み返して、つき合っていた相手が男であると知る。しかも、副嶋という男。これを暗示ととってもやむかたないか。
「すまねえが、今野よ」電灯の加減で額ばかり白く、まるで目の表情がわからなかった。「互助会、入ってくんねえだろうか。一口足りねえんだ」
ここで口早に日浅が語ったところを要約すると、半期で六十口のノルマがあるのだが、これに達していないらしい。今月すなわち本日じゅうにあともう一口契約を得なければ雇用を切られてしまうのだという。
「いや、やめとこう。やっぱり」酒を置き、かわりにわたしはシェラカップを手に取った。中に三分の一ほど飲み残していたコーヒーはすっかり冷めて弛緩しており、香りも何もなかった。
「帰らなきゃならないんだ。明日は出勤になったから」
言いながら口ごもってしまい、それでこの嘘は見破られてたはっきり感じた。鮎の焼ける匂いがつんと鼻についた。
「課長、死んじゃったかもしれないよ」
まず口の中のデニッシュを、わたしは全部呑み込んだ。この人のいう課長とは、現実のあの、五十がらみの課長職にあたる人物ではない、日浅典博のことなのだ。
ふと凄まじい揺れを、足もとから全身に感じて立ち上がり、思わずいったん、顔を空に向ける。テトラポッドを軽くひと舐めするように、黒々と濡らして消える波の弱音を聞く。この数十センチの小波はしかし、あの大津波の第一波なのだ。
→ここは「あの日早朝から家を出て、午前中は契約を求めて釜石市内の住宅地を回り、〜した日浅が」 と神の視点であの日の日浅が描かれる部分。
巨大な海水の壁だとわかったときにも、日浅の足は動かない。却ってその場に釘づけになる。まじろぎもせず、目ばかり大きく見開かれるのに決まっているのだ。そしてその瞬間、ついに顎の先が、迫り来る巨大な水の壁に触れる、いつも睡眠不足でくたびれたような、その最後の瞬間まで、日浅は目を逸らすことなどできないだろう。
「あの男と縁を切る決意を固めてくれたわけですから」
取りつく島がないとはこのことだろうと、内心わたしはうなっていた。息子を勘当した以上、それは父親として意地があるのも当然だった。しかし今度の場合は例外だろう。日常的な感情は一切留保するべきじゃないかと思い、食い下がった。
「あのばか者のためにどなたの手も、わたしは煩わせる気は起こらんですよ」それにお言葉ですが、と日浅氏は続けた、息子なら死んではいませんよ。
ただ、どうもわたしとのあいだに見えない建具が、一枚も二枚も挟まっている、何といいますか、徹頭徹尾隔たりを感じるのすね。
息子はといえば一心不乱に何やら数をかぞえあげながら、爛々と目を輝かせて彼女たちを下から見上げているんです。おぞましいものを感じましてね。力づくで息子を抱えあげ、さっさと公園をあとにしたのを覚えてますよ。思えばあれが、息子との隔意の遠因でしょうかね、わたしが息子を、明確に不気味だと感じてしまったことが。
「いずれにせよ何らかの事件で、あの男の名前は新聞に出ますよ。わたしは確信しています」
→異常な殺意や犯罪意識を抱えた人間ってのはこの世の中に存在するんだと思う。親がなんと言おうがどう育てようが、子に芽生えてしまったその火は消せない。圧倒的な悪意が特定の人間に巣食うとき、犯罪は必然になる。
全編に漂う、雨の日、川辺の湿った陰鬱なイメージがつきまとって離れない。
不穏さと不気味さで一気に読ませてしまうその力量は、新人賞受賞にふさわしい。
「震災文学」と言われてしまうと、それで分かってしまった気になる。
そんな批評には、ただ抗いたかった。