『知性の顛覆 日本人がバカになってしまう構造(橋本治)』
7/9付朝日新聞朝刊「著者に会いたい」での新作新書、著者インタビューで橋本治。
<「自分のアタマで考えたいことを考えるためにするのが勉強だ」ということが分かると、そこで初めて勉強が好きになった>
反知性主義を読み解いていくなかでたどり着いたのは「不機嫌」「ムカつく」という感情だ。ムカつく人たちに納得してもらう言説を生み出さないと<知性は顛覆したままで終わり>だと指摘した。
一方、「知性」と同居していたはずの「モラル」が失われていったとみる。
テーマは「父権性の顛覆」だ。
例えば、自民党と小池百合子小池百合子・東京都知事との関係を、「夫」と夫に反発した「妻」と読み解く。
「自民党は基本的にオヤジ政党だから父権性の権化。『それって嫌よね』という家庭内離婚みたいなもの」。小池氏の人気の背景には、「そうよね」という中高年女性たちの共感があるとみる。
この人の言葉には、個人的な葛藤と思考の後に獲得したような知性がある。
本というメディアは、そういうものと出会えるから(著者が出し惜しみしていなければ)魅力があるんだよねやっぱり。
『星の子(今村夏子)』
「第三回 勝手に芥川賞選考会」を来週火曜(7/18)に控え、全候補作品を読みました。
今回はノミネート4作品と例年に比べて候補作品が少なかった。
2017年上期 候補作品
今村夏子さんは前回の『あひる』に続き、ノミネート。
この人は、感性や生理の部分で社会とうまく折り合っていない、生きにくい人間(特に、子ども)を中心に描く作品が多い。
今回のタイトルも「星の子」とな。まあ、あまりに無邪気で、大人を困らせる子どもが出てくるんだろうな、とか予測するだけで思いやられるわ。
父は、生まれてまもない我が子について抱える悩みを、会社でぽろっと口にした。たまたま父の話を聞いた同僚のその人は、それは水が悪いのです、といった。は?水ですか?水です。
父がもらってきた水は、湿疹や傷に効くだけではなかった。両親とも、この水を飲みはじめてから風邪ひとつひかなくなった。飲み水や調理用としても万能で、砂糖もみりんも入ってないのに、ほんのりと甘いのは、水自体が生きているからなのだそうだ。
次第に軽い吐き気がこみ上げてきたのは、まーちゃんの飲んでいるぶどうジュースのにおいのせいかもしれなかった。それは何度も借りるはめになった落合さんの家のトイレのにおいに、似ていなくもなかった。
「えーっ。だってあのときまーちゃん包丁持っておじさんのこと刺そうとしてたじゃん」
「うん、自分でもわけわかんなかった」
「おじさんびっくりしたと思うよー」
「おじさんとふたりで作戦考えてるときはうまくいくと思ったんだけどね…」
土曜日、殺されたくないばっかりに三時に駅の改札へいくと、すでにひろゆきくんは待っていた。
わたし、さっき、キスされそうになったんだ!と気がついたのは、家の近所の見慣れた児童公園の前まで歩いて戻ってきたときだった。吐き気がこみ上げてきて、危うくドーナツとメロンソーダを戻しそうになった。
気分が落ち着くまでベンチに座ってやり過ごし、家に帰ってすぐにお風呂に直行した。お風呂場のなかで、なぜか涙がぽろぽろでてきて止まらなかった。そのとき、ずっと前にまーちゃんと交わした会話がよみがえった。ねえ、キスしたことある?
ここ数年での雄三おじさんとの交流といえば、小学校と中学校の修学旅行の費用をだしてもらったときに、お礼の手紙を書いて送ったくらいだ。
バン!と南先生が両手で教卓を叩いたのと同時にわたしは顔を上げた。
先生はまっすぐにわたしの顔を見ていた。
みんなの視線がわたしに注がれていた。
「・・・今までがまんしてきたけど、さすがにもう限界だ・・・」
先生はいった。
「・・・あのな。いいか?迷惑なんだよ。その紙とペン。まずその紙とペンをしまえ。それからその水。机の上のその変な水もしまえ」
「待ってるほうがいいよ。じゃないとまたお互いにいったりきたりで一生会えなくなるかもよ」
といってさなえちゃんは笑った。
「なんでそういうこというの?」
「え?」
「一生とか、おおげさなこと・・・」
さなえちゃんはきょとんとした顔で「ごめん・・・」といった。
「ごめん」とわたしもあやまった。「ごめんね、じつはここにきてから全然お母さんとお父さんに会えてなくて」
(宗教の合宿で長いこと親に会えずに心細くなっているところでの会話。合宿の前に、親戚からは高校は家から離れて、叔父の家から通わないかと誘われていた)
→子どもってどこかで親に棄てられたときのことを、一緒に暮らせなくなったときのことを想像しては不安になるものだ。
最後には、父親と母親と落ち会い、星を見に行くシーンはほっこりとした安堵と、これが家族団らんの名残を楽しんでいるのではという淋しさとが同居する、いいシーン。
なお、本物の選考会は、7月19日(水)午後5時より築地・新喜楽で開催之予定です。
『男はつらいよ 〜寅次郎相合い傘〜』
この「男はつらいよ」と超絶バッドエンド系のハリウッド作品を交互にみて、ブログアップしてる辺りが文科系ブログのダイナミクス。世界観が違い過ぎてクラクラします。
ちょうど、映画終って劇場から出てきたらまだ昼間で、渋谷の雑踏を行き交うにどうしようもねえ大衆通りを目の当たりにして「やれやれ」みたいに思うくらいに。
旅先でバッタリ、というのはフーテン寅の特権だ。
今回はあのリリーと再び。
「これか?二年前くらいかな。俺と訳ありの女よ」
「きゃ〜、あんたあれから何してたのよ」
一緒に旅してた、パパこと家出サラリーマン(船越英二)と三人で宿に泊まると、
「わあ〜、あったかいわパパの足。気持ちいい」
って自分の足をパパの足に突っ込む。
後からやってきて、パパが御礼に持って来てくれたメロンが、自分の分なかったことに怒る。怒り方が子どもじみていて、実に寅さんらしい笑いどころ。
「どうせ俺はね。このうちじゃ、感情に入れてもらえない男よ」
とか散々文句云う。
博「なんだか情けないなあ」
寅「養子はだまってろっ!」
「バカ野郎!メロンなんか食いたかないよ!」
「決まってんだろう。あのうす生意気な女が」
「だって、寅さんが風ひいて寝込んだら、私つまんないもん」
と、仲直りは相合い傘で。
『レボリューショナリーロード(2008 サム=メンデス)』
人生にとって、退屈って最大の驚異。
誰もがみんなそんな状態からは逃げたくてしょうがない。
さらに、それが夫婦関係であったならば。夫婦それぞれが人生において「退屈。」と感じるようになったならば。
これは、そんな「人間の退屈」という意識と空間に差し込まれる悪夢のような映画かもしれない。
サムメンデス映画のお決まりパターンは、会社を辞めると決めた人間がフッキレて開放感に放たれる状態を撮られていく。アメリカンビューティーもそう。でも大抵その後でしっぺ返しに見舞われるんだけれど。
一見、仲睦まじく幸せそうに暮すアメリカの中流階級の夫婦。
思えば、この二人は当時二十代でキラッキラッだったタイタニックコンビの二人だ(気付くの遅過ぎ)。そんじゃこの映画。あの空前のラブストーリーの続編的ムードをまとうのか?と思うと、そうは問屋が下ろさない。
妻エイプリルはかつて女優をめざしていた。
何者かに変われると思っていた。しかしいまは二児の母だ。
いま苛まれているのは「子どもが生まれた者は落ち着いて生きるべきだ」という幻想。幻想をふっ切り、新しい人生を歩むべく、パリ行きを夫に提案する。
「人生を真剣に生きる、ってことなら、どんなにイカれてても構わないっ!」
ご近所さん夫婦の望みを聞き入れ、精神科に通う息子フランクを家に招き入れることに。彼は物語の(主人公夫婦の間の)不穏の預言者そのもの。好き勝手に話すのを許すことになる。
「母さん、みんなの未来を感じ取って黙ったらどうだ」
妻が新たに子を身ごもったことと夫の仕事も評価され始めたことをきっかけにパリでの新しい生活を断念せざるを得ないだろう、と夫がそう決めはじめた頃。妻は穏やかでなくなった。
「いいから、ここでして。ねえ早くっ」って仲良い友だち夫婦のダンナとケイト=ウィンスレット。
そしてこの映画のもう一つの大きなテーマ。夫婦の意識の距離(あるいは、喧嘩について)。
夫婦が何かについて話し合うとき、相手に誠実であろうとすればするほど、じっくり向き合い過ぎてしまうことがある。人間の感じることや、漠然とした情緒的な部分って言葉で説明なんてできそうもないことも多い。いちいち、誰かと共有するのがしんどいことだって少なくないだろう。
例えば、責められてる方は、逃げ場を失くして、頭がおかしくなりそうになることだってある。そういうときは、逃げ場を用意してやることである。
ある朝の夫婦の会話で。 妻は仲良い夫婦の男と、両夫婦で飲んだ帰りの車でやった翌朝。夫はつい最近やった浮気について告白する。
「別にこう何でもかんでも話し合わなくても、何でも受け容れて生きていけるでしょ」
これですよこれ。この映画の本質的な部分。これぞパンチライン。
精神科に通う、近所夫婦の息子(フランク)のみが、この状況の本質を突いてくる。
「あんたがそんな調子だから、だんなは子どもを作るくらいしか男を証明するすべがなかったんじゃないか」
と、人の家にまで来てサイテーな一言。
映画至上最悪の夫婦喧嘩。
「この際、ちゃんと云っといてやる!堕ろしてしまえばよかったんだっ!」
翌朝、世界が変わったかのような”最高の朝食”をとって、その昼、エイプリルは中絶する。かなりのバッドエンド。
前評判や事前情報なく、「タイタニックコンビの映画」ということで、映画館に行ったカップルにとっては卒倒寸前、ハリウッド映画の奥深さというものを感じざるを得ない一作になったことだろう。
『無意識の構造(河合隼雄)』
彼女は耳が聞こえないので、筆談をするわけだが、筆談をかわしながら、こちらはそこに書く質問などを声に出していいながら書いてゆく。そして、彼女はだんだんと筆談の中にひきこまれてきたと感じたとき、それに関連したことを紙に書かずに口頭で質問する。すると、不思議なことに彼女はそれに応答してくる。つまり、彼女は聞こえていることが判明するのである。
ユングは単語連想検査というのを用いることを思いついた
朝起きているうちに、なんとなくいらいらしてくるときがある。いくら考えても原因が解らないときもある。しかし、あとで反省してみると、新しく大臣になって騒がれている人の年齢が自分と同じであることを知った途端に、劣等感コンプレックスが刺激されて、自我存在が多少おびやかされていたことが判明するときもある。われわれがいらいらさせられるとき、われわれはなにかを見通せずにいるのだと考えてみると、ます間違いはない。自我の光のおよばないところで、なにかがうごめいているのである。
すべて創造的なものには、相反するものの統合がなんらかの形で認められる。両立しがたいと思われていたものが、ひとつに統合されることによって創造がなされる。
マリアは母であると同時に処女でもあるし
女性の場合も、母性に対して強い反発を感じる時期がある。そのような母性への反発が長くつづき、女性としても発達が遅滞する場合が考えられる。現代女性にとって、自分が女であることを受け容れることはなかなか困難である。
ある二十代後半の女性は、ボーイフレンドと同棲したりはするのだが、結婚の意志はなかったし、子どもを産む気もなかった。母性を否定する女性は、しばしばエロスの力に圧倒される。彼女は結婚・出産を否定しつつ、次々と異なる男性と肉体関係をもつ。
いわば、人間は下界に向けてみせるべき自分の仮面を必要とするわけであり、それが、ユングの言うペルソナなのである。
この図式に従って説明すると、西洋人は自我を中心として、それ自身ひとつのまとまった意識構造をもっている。これに対して、東洋人のほうは、それだけではまとまりを持っていないようでありながら、実はそれは無意識内にある中心(すなはち自己)へ志向した意識構造を持っていると考えられる。ここで、自己の存在を念頭におかないときは、東洋人の意識構造の中心のなさのみが問題となり、日本人の考えることは不可解であるとされたり、主体のなさや、無責任性が非難されたりする。
日本の文化が母性との結合を保存しつづけ、西洋人と比肩しうるような自我を確立してきていないことは、非常に特徴的である。といっても、このことは必ずしも否定的にのみ評価しているのではないことは、いままでの議論から解っていただけると思う.ユングの大半の努力は、西洋において確立された自我を、いかにして自己へと結ぶ付けるか、ということであったと言っても過言ではない。
実のところ、無意識の世界の無時間性という点に注目するならば、古いものの中に、まったく新しいものを発見することも可能であると思われる。
『もものかんづめ(さくらももこ)』
ちびまる子ちゃんの作者、さくらももこのエッセイのセンス。ワーディングの絶妙さ。視線のシニカルさやユニークな文章には定評がある。
「健康食品三昧」
ケーキ屋の試食品をばくばく食べている女がいる。それが正午の人であった。
彼女は花柄のブラウスにパンタロン超センスの悪い60年代のいでたちで、汚いきんちゃくを持っていた。ケーキ屋の試食品を食べた後、私の方を見てニヤリと笑い、「健康食品には用はないよ」と言い放って立ち去った。
「明け方のつぶやき」
それのCMに出ている役者までをも信頼し、「あんたがそう言うのなら、あんたを見込んで買いましょう」と、財布のひものブカブカになる。アクアチェックをしていた頃の石坂浩二など、何度私に見込まれたであろう。
私と父は機関銃のように笑った。バージンボイスを「うんこちんちん」に奪われた枕(=睡眠学習枕)は、少し震えているように見えた。
「メルヘン翁」
私は姉の期待をますます高める効果を狙い、「いい?ジイさんの死に顔は、それは面白いよ。口をパカッと開けちゃってさ、ムンクの叫びだよあれは。でもね、決して笑っちゃダメだよ、なんつったって死んだんだからね、どんなに可笑しくても笑っちゃダメ」としつこく忠告した。
姉は恐る恐る祖父の部屋のドアを開け、祖父の顔をチラリと見るなり転がるようにして台所の隅でうずくまり、コオロギのように笑い始めた。
”泣き女”とは、東アジアあたりのどこかの国で、葬式があると悲しみのムードを盛り上げるために、わざわざ泣きにやってくる女のことである。
霊柩車に棺が入れられると、「ジイさんも偉くなっちまったなア、やいやい」と父が呟いた。ちなみに「やいやい」という無意味なかけ声は、たいした発言でもないのに少し注目してほしい時に発する父独特のくだらない口ぐせである。
「無意味な合宿」
私は”シイタケのみじん切りに、足や触覚があるはずはない”と思ったのだが、誰も何も言わずに食べているので”私だけムシがいると騒いで神経質な女だと思われたらイヤだからやめよう・・・”とつまらない見栄をはり、コクゾウムシをシイタケのみじん切りだと自分を騙しながら我武者羅に食べた。
「宴会用の女」
この男をこの先”先輩”と呼び、慕わなければならないのかと思うと、労働意欲が蒸発していく気がしたが、一応「どうぞよろしくお願いします」とあいさつした。
「意図のない話」
しかし、彼女の話が事実ならば、彼女の大腸内で五十センチもの便が、ブレスなしで保管されていたのは驚異である。
「青山のカフェ」
私は涙を流し、どうやら別れ話になりそうな雲行きであった。外は霧雨が降っており、深刻なムードも最高潮の時、突然隣りのテーブルにいたサラリーマン四人連れの一人が、「それでは私、小便をして参ります」ときっぱり言って席を立ったのだ。
私の涙は半分乾いた。
先ほどの小便男がまたも「私のパンツのシミでございますが、それは薄い黄色でございます」とキッパリ言うのが聞こえた。
ーー中略
今思えばあの時のあの男は、私達の人生の中で重要なポイントを占める役割を果たしているのである。
『僕らが毎日やっている最強の読み方(池上彰・佐藤優)』
日本人の精神が内向きになっていることの裏返しの現象。
海外ニュースになったとたんにがくんと数字が下がる。
p56
ゼロ戦は、海軍からの矛盾だらけの要望に応え、あらゆる性能を満たそうとした結果、一発弾が当たったら火だるまになるような飛行機になってしまった。高度なパイロットの技術が必要な、ものすごく人を選ぶ戦闘機だったようです。逆にアメリカはたいして能力がなくても誰でも使えるような戦闘機にするわけで、それは設計思想からして違います。それはじつは、日本企業にも言えることではないかと。
p133
無料のニュースサイトのように記事が並列に並んでいるということは自分で記事の重要度を判断しなければならないということ。
p153
歩きスマホをしている東大生をひとりも見ない、と。
p178
土台となる基礎知識がないと、知識が積み上がっていかない。
p211
僕らが毎日やっている最強の読み方;新聞・雑誌・ネット・書籍から「知識と教養」を身につける70の極意 | 池上 彰, 佐藤 優 |本 | 通販 | Amazon
『ゲンロン0 観光客の哲学』
上半身は思考の場所、下半身は欲望の場所である。 p121
観光客とはなにか。それはまずは、帝国の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在の名称である。
p155
「郵便」は、存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉である。
p156
誤配すなわち配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態という意味で使われている。観光はまさにこの意味で「郵便的」である。ぼくたちは観光でさまざまな事物に出会う。なかには本国ではけっして出会わないはずの事物もある。たとえば美術にまったく興味がないひとも、フランスやイタリアに行けば美術館めぐりをしてみたりする。
p158
ひとがだれかと連帯しようとする。それはうまくいかない。あちこちでうまくいかない。
p159
家族は、自由意志ではそう簡単には入退出ができない集団であり、同時に強い「感情」に支えられる集団でもある。家族なるものには、合理的な判断を超えた強制力がある。
p215
ドストエフスキーは、過程の崩壊を描写するために「偶然の家族」という言葉を使ったことがある。家族が家族として集まっている必然性のない家族という意味だが、しかしほんとうは、すべての家族が偶然の家族である。
p216
ポストモダンとは「大きな物語」の喪失によって定義される時代である。それは精神分析の用語で言えば「象徴界」の失調を意味している。
そしてここで重要なのは、さきほど紹介したジャンルSF史における「宇宙」や「未来」の地位低下は、まさに、時期的かつ内容的に、文学におけるポストモダン化の現れだと考えられることである。宇宙と未来の失墜、それは大きな物語の喪失にほかならない。
p251
彼は逆に、その痛さを忘却してしまうことは人間の誇りを失うことだと考えている。
「わたしはひとつつまらない質問を出してみようと思う。安っぽい幸福と高められた苦悩とでは、はたしてどちらがよいか、ということだ。さあ、どちらがいいか?」
ここには、動物的ユートピアを拒否する論理のひとつの雛形が提出されている。
p270
子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。ひとことで言えば、これがぼくがこの第二部で言いたいことである。
p300
『ファミリーレス(奥田亜希子)』
朝井リョウだか誰だかが薦めていた若手作家ということで手に取った。
いろんな家族の形、六篇からなる。
物語の進行のために登場人物にわざわざ言われている台詞があったり、無理に小説(風の表現、あるいは文語的紋切りと言おうか)にしようとしている不自然さが気になった。
1.プレパラートの瞬き
グチとか悪口を云わない奴は省かれるゾって実感が私たちにはある。その場の雰囲気に合わせてそこにいない人間の悪口を言わなかったり、それに参加しようとしなければ場では浮き、ときに場を白けさせる。ある種の同調圧力が存在する。
誰かを悪く言うことにはそれに関わってもいいときと、関わりたくないときがある。悪く言われることになる相手との関係性があるからだ。人がひしめきあい集団で社会を営んでいる我々には、グチや悪口がなくなることはない。それらとの付き合い方を個々がどう決めているか、興味深いところだ。
俊二の言葉には質量があった。意味や気持ちがめいいっぱい詰まっていて、つまりは本物だと、そんなふうに思っていた。美味しそうに美味しいと言い、楽しそうに楽しいと言う。それは意外と難しいことだ。
グチが多く、口の悪いシェアメイトの友人に「私」が合わせられるとしたら、誰かを強烈に悪く言いたいとき、言って欲しいとき。
人を悪く言わないように教育を受けてきた希恵は、最も悪く言いたくない相手は家族に他ならない(はずだ)。
#妊娠というもののある種の不可抗力性
2.ウーパールーパーは笑わない
寝取られならぬ、妻と別れ子と話された男の冴えない日常話。
娘にちゃん付け、合う度に何か買ってあげるも娘に(あるいは元妻に言い聞かされて)お金の心配される始末、別れた後もたまに会う時間に遅れる、
僕が愚かであることは、僕が一番知っている。
3.さよならエバーグリーン
中学に上がって冴えない俺。小学校のときはよく喋った東伊織里ともなかなか話す機会がない。
#小学生のときのように、教室中を笑わせることはもうない。
目立つ奴らが伊織里にかまってる。僕は行動を起こせない。冴えない僕なんかにそんな権利はない。
こういうとき、キープレイヤーは家のなかにいる。何を言っているかわからないひいばあちゃんだ。