『愛の渇き(三島由紀夫)』
悦子はその日、阪急百貨店で半毛の靴下を二足買った。紺のを一足。茶いろを一足。質素な無地の靴下である。
野菜泥棒を追いかける百姓の怒声に似ている
(弥吉)
「お舅さまはこれが私の贋物の日記だとご存知ない。これが贋物の日記であることを誰が知ろう。こうまで人間が自分の心を巧みに偽れるものだと誰が想像することができよう」
良人を失って一年とたたない女が、何だって良人の父親に身を委かす気になったのであろう。
緩慢な死
(良夫への嫉妬に殉ずる殉死)
家のなかの至るところに私は彼の不在を見出した。庭にも、仕事部屋にも、台所にも、彼の寝間にも
「しかし、三郎を見ないでは、私は生きられない。三郎はここを去ってはならぬ。そのためには結婚させねばならない。私と?何という錯乱だ。美代と、あの田舎娘と、あの腐れトマトと、あの小便くさい馬鹿娘と、だ!そうして私の苦しみが完成される。私の苦しみは完全なものになる。それこそ余蘊のないもになる。・・・」
片方の乳房が露わにみえる。寝巻がはだけているのは乳房の力ではないかと思われるほどに張りつめた弓のような乳房である。
しゃにむに自分を幸福だと考える根拠を築くために、悦子は今では凶暴な論理を必要とした。
『女の粗相という奴もいわくのあるものが』と弥吉は考えた。『若いころの友人に、浮気者の辛島という男が居って、そいつの細君は、亭主が浮気をはじめると、毎日皿を一枚ずつ粗相して割ったそうだ。純然たる粗相で、細君は亭主の浮気を本心からは知らないのだそうだ。自分の指先の不本意な失態に、毎日無邪気に驚いていたそうだ』
「美代に暇をお出しになるまでは、いや」
彼女は三郎に憎まれたいための告白のおつとめを、恋心に浮かされて祈祷を忘れる尼僧のように忘れるのであった。
三郎は途方に暮れた。何とも言いようのないむつかしい女を前にして、手こずった。黙るほかない。
三郎は人間がいつでも誰かを愛さないなら必ず他の誰かを愛しており、誰かを愛しているなら、必ず他の誰かを愛していないという論理に則って行動したことがたえてなかった。こういうわけで再び彼は返答に窮した。
『奥さんの目はずいぶん真剣に潤んでいるな。わかった。この当て事の答には、奥様の名前を言ってもらいたいんだろう。きっとそうなんだろう』
三郎はかたわらの黒く干からびた葡萄の実をとって、掌のなかでころがしながら、うつむいたまま、あけすけにこう言った。
「奥様、あなたであります」
あまりにありありと嘘を告げているこの調子、愛していないと言うよりはもっと露骨に愛していないことを告げしらせているこの調子、こうした無邪気な嘘を直感するためには、必ずしも冷静な頭脳が必要とされないわけで、一方ならず夢心地に浸っていた悦子も、この一言で気を取り直して立ち上がった。
万事は終ったのである。
三郎がときどき上目づかいに眺めていた悦子は、女ではなくて、何か精神的な怪物であった。何かしらんそれは得体のしれない精神の肉塊であって、悩んだり、苦しんだり血を流したり、そうかと思えば喜悦の叫びをあげたりする、あらわな神経組織の塊であった。
ところが立上って襟巻をそばだてた悦子に、はじめて三郎は女を感じた。悦子が温室を出てゆこうとする。彼は腕を横たえて、これを妨げた。
若い快活な肉体に押しまくられて、悦子の素肌は汗ばんだ。草履の片方が脱げて、裏返しに落ちた。
紅潮し、汗ばんで輝いている三郎の顔を間近に見ながら、衝動によって美しくされ、熱望によって眩ゆくされた若者の表情ほどに、美しいものがこの世にあろうかと悦子は考えた。そういう思念とうらはらに、彼女の身体はまだ抗っている。
三郎は両腕と腕の力で女の体を押さえつけると、まるで戯れてしてでもいるように、黒綸子のコートの釦を歯で喰いちぎった。悦子は半ば意識がない。自分の胸の上をころげまわる大きな思い活動的な頭を、溢れるような愛しさで感じた。
それにもかかわらず、この瞬間に、彼女は叫んだのである。
一語読み逃すと誤解必至、行動と思念の矛盾アマルガム。
弥吉「何故殺した」
悦子「あなたが殺さなかったから」
誠に勝手なイメージの吐露ながら、悦子の実写版イメージは NHKニュースウォッチ9のアナ。
『愛の渇き(三島由紀夫)』
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