ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

『歴史と戦争(半藤一利)』

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 心にとどめ置きたい、学ぶことがほんとに多い、戦争をしっている先達の話。

こういう人と、お酒を飲みながら語る機会が得られると素晴らしいだろうな。

半藤一利の、いいとこ取り集。

 

明治維新などとかっこいい名前をあとからつけたけれど、あれはやっぱり暴力革命でしかありません。その革命運動の名残が、明治十年の西南戦争までつづいたというわけです。西郷隆盛ひきいる叛乱軍を、新政府軍が倒して西南戦争が終る。ここまでが幕末である、というのがわたくしの説です。(『歴史に「何を」学ぶのか』)

 

 

祖父母は、“官軍”などとは金輪際言わなかった。あくまで西軍でしかない

・・・この西軍の末裔が太平洋戦争をはじめて、国を滅びる寸前までしてしまったが、東軍の末裔が辛うじてこれを救ったのである。(『聯合艦隊司令長官山本五十六』) 

 

 

軍事史家の前原透氏が、実に微妙なところを調べあげ書いている。

 日露戦争後、参謀本部で戦史が編纂されることになったとき、高級指揮官の少なからぬものがあるまじき指摘をしたという。

日本兵は戦争において実はあまり精神力が強くない特性を持っている。しかし、このことを戦史に残す事は弊害がある。ゆえに戦史はきれい事のみをしるし、精神力の強かった面を強調し、その事を将来軍隊教育にあって強く要求することが肝要である」

 なんということか。日露戦争史には、こうして真実は記載されなかった。つまり戦争をなんとか勝利で終えたとき、日本人は不思議なくらいリアリズムを失ってしまったのである。(『ノモンハンの夏』)

 

 

日本帝国の創始者伊藤博文山県有朋であった。

 

民・軍にわたる官僚制度であり、統帥権の独立である、帷幄上奏権である、治安維持法である。なかんずく、「現人神思想」である。

 昭和の日本で敗戦に導いた指導者の多くは、山県の衣鉢をついだものたちであった。

 

その意味で『大日本帝国が山県が滅ぼした』といっても、かならずしも過言ではない。

 その山県が、秘密主義、官僚的、冷酷、権力的といった暗い性格ゆえに、人気がないからと、忘れ去られてしまっているのは、近代史を学ぶものとして、いささか不当、の印象をぬぐえないでいる。(『山県有朋』)

 

石橋湛山 たどりついた結論が「小日本主義」。いいかえればm当時の日本の多くが抱いている 「大日本主義」をあっさりと棄てよという、棄てたところで、日本になんらの不利をもたらさない。かえって大きな国家的利益となる、ということであったのである。

 

朝鮮・台湾・樺太満州というごとき、わずかばかりの土地を棄つることにより、広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない。(『戦う石橋湛山』)

 

加藤高明内閣のときに、共産主義運動、無政府主義運動の弾圧を目的として施行されていた治安維持法の改正問題が浮かび上がる。とにかく選挙の結果は支配層に一段と強力な治安立法の必要性を痛感させた。 

 

 

「二十億の国費、充満の同胞うの血をあがなってロシアを駆逐した満州は、日本の生命線以外のなにものでもない」

 この数字は日露戦争で使った軍費、そして尊い犠牲者である。そうまでしてやっと手に入れた満州の権益は、まさしく昭和日本が守りぬくべき生命線ではないのか。『B面昭和史』

 →まさにサンクコストとして諦めきれない満州

 

満州国をもったがために

 満州国という巨大な“領土”をもったがために、分相応な巨大な軍隊を編成せねばならず、それを無理に保持したがゆえに狼的な軍事国家として、政治まで変質した。それが近代日本の悲劇的な歴史というものである。

 

 

朝日新聞』は自社の七十年史で書いています。

「昭和六年以前と以後の朝日新聞には木に竹をついだような矛盾を感じるであろうが、柳条溝の爆発で一挙に準戦時状態に入るとともに、新聞社はすべて沈黙を余儀なくされた」とお書きになっていますけれど、違いますね。

 沈黙を余儀なくされたのではなく、商売のために軍部と一緒になって走ったんですよ。

『保坂正康氏との対談で』 

 

 

1934年11月20日、静岡県草薙球場日米野球でばったばったと三振量産する沢村栄治。沢村は中国戦線に二度招集され、左手を負傷。帰国して徴用でびょう打ち工員、三度目の召集で台湾沖で戦死した。好きな野球に打ち込めるいまのプロ野球選手諸君よ、沢村の無念を忘るるなかれ。『昭和探索3』

 

 

四日間でこの年最大の二・二六事件は終った。いや、ほんとうは終わってはいなかったのである。事件が巻き起こした”叛乱“という恐怖をテコにして、政・財・官・言論界を脅迫しつつ、軍事国家への道を強引に軍は押しひらいていった。二・二六は死せず長く生き残ったといえる。『昭和探索3』

 

・・・窓から女の人が真っ白い首を長々とさしだして、光った金歯をみせてニヤリとした。「まだ早いよ。毛が生えてからおいで」

 泡を食って転ぶように逃げた源頼光と四天王、大通りの商店街に飛び出たら、目の前に下駄屋と瀬戸物屋が隣り合わせで並んでいた。その屋号が金玉屋と万古屋であった。『永井荷風の昭和』

 

石原莞爾 開戦戦直後に立命館大学で国防学の講義をして、その中でこう言ったんです。

「この戦争は負けますなあ。財布に千円しかないのに一万円の買い物をしようとしてるんだから、負けるに決まってる。アメリカは百万円を持ってて、一万円の買い物をしてる。そんなアメリカと日本が戦って勝てるわけありません」と。

 『昭和をどう生きたか』(丸谷才一氏との対談で)

 

 いざ開戦となった場合の戦争の見通しについて、十一月十五日、大本営政府連絡会議は充分に討議した。その結論はーーアメリカを全面的に屈服させることは、さすがの日本の「無敵」陸海軍も考えてはいない。

①初期作戦が成功し自給の途を確保し、長期戦に耐えることができたとき。

②敏速積極的な行動で重慶蒋介石が屈服したとき。

独ソ戦がドイツの勝利で終わったとき。

④ドイツのイギリス上陸が成功し、イギリスが和を請うたとき。

 そのときには、アメリカは戦意を失うであろう。栄光ある講話にもちこむ機会がある、というのが骨子である。

 しかし初期作戦不成功の場合、ドイツが崩壊した場合など、日本に不利なときについてはまったく考えられていなかった。

『ドキュメント 太平洋戦争への道』

 

 私の親父というのがへんな親父でね。向島運送業をやっていたのですが、大平洋戦争が始まったその日に、「この戦争は負けるぞ。おまえの人生も短かったなあ」て言うんです。まわりは必勝、必勝と騒いでいますから、「何を言ってるんだろう、このジジイ」と思いましたよ。 『腰抜け愛国談義』

 

 

 アジアの盟主たらんとする日本が、昭和十七年春、緒戦の連戦連勝の勢いのまま、フィリピンのレイテ島を占領した。統治すること一年余で、日本軍が成しとげたもの。

1.数本の田舎道を完成させた。

2.井戸を五つ掘った。

3.現地人用に水運びのための天びん棒を大量に作った。

4.証明用にロウソクを大量にこしらえた。

 キミ、笑うことなかれ。これが六十年余前の日本の実力のほどであった。とくに数本の田舎道の完成には涙ぐましくなる。鬱蒼たる密林を必死の想いで切り拓いて...

 このレイテ島を昭和十九年十月にアメリカ軍が奪還して、それからわずか十日間で成しとげたものたるや、アメリカの戦史にかくある。

1.数本のアスファルト道路を作った。

2.小規模な飛行場を完成させた。

3.水道設備をくまなく完整させた。

4.自家発電機を作った。

  いやはや、である。 『ぶらり日本史散策』

 

 

 多くの青年たちが運命に身をゆだねながら、なんとかして心の底から戦争を納得したいともがき、悩み、傷つき、うめき、そして死に急いでいった。 『原爆の落ちた日』

 

 

・・・戦争に勝利のないことが明らかになっても、乾坤一擲の決戦によって何とか大勝利を得て、少しでも有利な条件で講話にもちこみたい、

『昭和史探索6』 

 

 明らかに敗戦であるのに、「終戦」と呼び替えたことが、「負けた」という事実を認めようとしないまるいはそれを誤摩化そうとする指導者たちの詐術のごとくに、批判的に指摘されている。それはもうそのとおりである。しかし、当時、国民が敗戦を終戦と呼んだのは、単に「敗戦」という表現を嫌ったという理由からだけではないように思われる。そこには、一億総兵士、一億玉砕まで戦うという総動員体制がスウーと消え去ったという安堵感があり、この、とにかくこれ以上戦わなくていいのだ、戦争は終わったのだという安心した気持ちに「終戦」という言葉はぴったり、国民的な実感があったのである。そんな気がしてならないのであるが。 『十二月八日と八月十五日』

 

 

東条英機形式主義

 戦争中に、彼が総理大臣と陸軍大臣参謀総長を兼任したとき、部下が来て報告すると「それは統帥事項である、ちょっと待て」と言って、別室で参謀懸章を着けて聞いた。彼は参謀総長として聞くわけです。次に陸軍省の局長あたりが来ると、また「ちょっと待て」と言って参謀懸章を外す。今度は陸軍大臣として聞く。それを本気でやったんですね。『日本参謀論』

 

 

 大平洋戦争において陸海軍将兵は二百四十万が戦史した。このうち広義の餓死による死者は70%に及ぶのである。『墨子よみがえる』 

 

 地方の県庁所在地と思われるところはほとんど爆撃を受けています。なんのためにこんなところまで焼いたのかと抗議したいくらいの無差別攻撃で、約九十都市がやられ、戸数にすると二百三十六万戸..

『昭和史 戦後篇 1945−1989』 

 

 

 スポーツの練習とはくる日もくる日も同じことをやっています。くり返すことが、結局、いちばん大切なのです。スポーツの醍醐味とはくり返すことに倦きないこと。あるいは何でもそうかと思いますが、ものごとの上達とはそうしていることで、ある日突然にといってもいいほど開眼して、ボートを漕ぐことが楽しくなり、艇がエッと驚くほど速く滑るように走るようになります。

 『歴史に「何を」学ぶのか』