ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

論壇時評『世襲化と格差』小熊英二(10月27日付 朝日新聞)』

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政治家が劣化しているという、とTVの中で今日も誰かが言った。

やれやれまた言ってるよという印象の反面で、ほんとにそうだと思う。

 

私のような、物心ついたころは既に90年代も半ばという世代にとっても、(つまり時の政権が村山富市だったり橋下龍太郎だったり、という時代)、いまの政治家はなんだか人間的な年輪が足りていない。自らを貫く信念と、それを伝える言葉を持っていないように思える。

 高橋源一郎編集の論壇時評もそれなりに面白かったが(徹底して弱者やマイノリティに寄り添うという彼の“癖”も認めつつ)、小熊編集の切り口は面白い。流れの早い川の中に、手をつっこみながら明確なテーマをガシッと掴むグリップ力がある。

 

「日本の歴代首相の簡単な覚え方を教えよう。敗戦から1954年までの首相は元外交官だ。占領軍と交渉するのが首相の重要な仕事だったからだ。55年から80年代までの首相は元官僚か地方のボスで、自民党の黄金時代を築いた。90年代以降の首相は多くが2世か3世で、日本は長期低落している」

 以上は、私が外国で講義するとき、ときどき使う説明だ。

 

自民党員数は91年の547万人がピークで、2012年には73万人に減った。政権復帰後は議員にノルマを課して党員を集めているが、まだ100万人にも及ばないという。

---自民党衆議院議員の4割以上は当選2回以下でしかない。彼等は基盤が弱いので、党中央に逆らえない。連続当選できるのは、旧来の基盤が残っている地域の世襲議員になりやすい。こうして首相の世襲化はと二強状態が出現する。つまり首相の世襲化は、日本社会の変質の表れである。

 

教育においても格差の再生産(=世襲化)が目立つようになった。

 75年に比べて、国立大授業料は約15倍、私立は約5倍となった。

 

『体制内で見た文革』王輝氏・天津社会科学院名誉院長(10月20日付 朝日新聞)』

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【用語解説】..by朝日新聞

文化大革命」:経済政策の失敗などを受け、毛沢東が1966年、階級闘争の継続などを呼びかけて発動した政治運動。共産党の官僚化や特権化に対する市民の不満を刺激し、紅衛兵や造反労働者らが組織され、各地で政府機関などが襲撃された。76年に事実上集結。共産党が81年に出した歴史決議は「文革は指導者が誤って引き起こし、それが反革命集団に利用された」として、毛沢東の一定の責任を認めたうえで、「党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱」と位置づけている。

 

文革は..伝統的な文化や価値観が否定され、宗教施設なども壊されました。

 

文革は高度に集中した伝統的計画経済を打ち壊し、その後の改革開放への条件をつくった。もし文革の歴史がなければ、中国はソ連の道をたどっていたでしょう。

 

中国は今、左(共産主義)に進むこともできず、かといって右に行くこともできない。右とは米国式の民主政治の道です。このまま進んでいかなければ、生き残ることはできません。

 

すでに貴族権益のようなものを持つ階級も生まれているから、左にも行けない。今や中国にどれだけ大金持ちがいると思いますか。彼らから再び財産を奪ったら、大混乱になります。ただただ、今のままでやっていく。これしかほかに道はありません。

 

中国共産党は暴力革命によって政権を奪った。暴力による政権奪取の必然の結果は専制政治です、それは民主化をもたらすことはないのです。

 

民主的に選ばれていない党政権が統治を正当化できるものは、経済発展の実績などに限られてしまった。 

 

言わずもがなだけれど、トランプ政権になってからの対中政策について、世界中がその行く末を見守っている。

トランプも就任当初は、穏健に事を荒立てずにカウンターするという見方があるけれど、本質的なところでどういう戦略思考をして、舵を取っていくか自分の頭で考えられるほどにはウォッチしていきたい。

 

 

そんでここ(この新聞)には、今の日本人が心に留めておくべき問題の切り口や幅広い知見やなんかがまだある。朝日新聞のこういう部分は、深く認めざるをえない。

 

『海を感じる時(2014)』

 

余白が多い日本映画。

土曜朝に読書しながら、視聴する。

パンチな科白のオンパレードだった。

 

気持ちいいくらい、身体目当ての男。

しかも、シリアスに“女の身体に興味がある”のだと。

女は男に惚れていた。身体で繋ぎ止めるしか、迫るしかない女のギリギリの緊迫感がこの映画を支えていた。

 

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「俺はあんたに会うと身体を触っちまう。。だから、俺たちはこれ以上会わないほうがいいんだよ」

 

「だからこんなこと続けてると、ますます気持ちが離れてっちゃうんだよ」

 

 男もそれなりに苦しそう。

 

しかも、女はどうしてもその男のことが好きだった。

 

で、公園のブランコ坐ってタバコ喫いながら暗い顔でウジウジ考えてたり、

いわゆる飲み屋でじっと押し黙って酒飲んでたりする(酒です。ビールじゃない)。

市川由衣の、この、どうしようもない不幸な哀愁がたまらない。

 

 

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畳の部屋で毛布にくるまって一升瓶。

プライスレス。

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高校生の娘のアバズレ道を知った母。

母と娘のマウントしあいも辛い。

母「あんたみたいあに淫らなこと、したことないから分かんないよっ!!」

 

(父が死に、岸壁で父親の名前を叫ぶ母)

「私は誰を呼べばいいの」

「お母さん、私も女なのよ」

 

「早く帰んなよ。俺の生活を侵さないでくれ」

 

誰かが分かってくれなきゃ。わたし淫らでどうしようもない女になっちゃう。

 

 

石を投げて街灯を割ろうとしていた女に、石をさしのべる男。

初めて会った男の、部屋についていって脱ぐ。

脱ぎ慣れている女は、とにかく脱ぐ。

目隠しなんかされて、されるがままになる。

 

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翌朝、身体を洗う。

銭湯でおしりペタンというシーンが印象的過ぎて、「身体を洗い流す」という“意味”にたどりつくまでに時間がかかる。

 

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女は食卓で、他の男と寝たことを告げる。

「昔好きじゃないって言ったけど、好きになっちゃったんだよ。好きになっちゃいけなかったのかよ」

 

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怒りにまかせて、後ろから犯すと、

女は止まらずつぶやく。

「そんなの、いつもと同じじゃない」

 その時の感情やいかに。

 

ようやく振り向いたと思った男への復讐めいた感情か。

 

この話はどうやって終るのか。

どういうシーンで終るのか。

 

実家の窓から出て、塀を越えると。

そこは浜辺で海だったとさ。

 

 

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誰にでも愛される女になればなるほど、ダメになってゆく〜♬

『断影 大杉栄(竹中労)』

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ボルシェビキよりも、アナーキズムだ。

 (アナボル論争みたいなもんでね」と言ったら、労働者を中央の統制に従う組織にしようとしたボル派と、地方の個々の団体が主体性を保ったまま自由意志で連合すればよいと考えたアナルコ派)

 

こんなに面白いルポは初めてだ。

そう遠くないうちに、また読むと思う。

扱っている人物(大杉栄)の面白さそのものだろう。

しかし、それをうまく引き出し、上手に味付けしているこの人(竹中労)の力量が発揮されている。

それにしてもこんな本(人物)、思春期に食ったらヤバかったわー。。

 

「思想に自由あれ、しかしまた行為に自由あれ、さらにはまた動機にも自由あれ(僕は精神が好きだ)」

 

幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました(『サーカス』中原中也

 

日本共産党に青春を捧げた

 

獄中でエスペラント語を習得

 

 霊肉の絆に結ばれた

 

一九二〇年(大正9)、「宮中某重大事件」発生。裕仁親王の妃と定められた久邇宮良子女王に対して、“色盲の血統がある”という異議を山県有朋は申し立てた。

 

冬の時代の凍土に、天性のオルガナイザー大杉栄は、“思想”の鍬を入れた。

 

思想と行動の振幅・変幻自在、現実に即応して先手先手と、情況をドリルし切りひらきさらには飛越していく、夢想と実際とが言えば一鎖にないまざった革命者で、大杉はあった。その根底には、「生の拡充」という至上の命題、制御されざる本能「(人間は)死ぬという事実、それ以上にいま生きているという事実」

 

「この反逆とこの破壊との中にのみ、至上の美を僕は見る。“征服の事実”がその頂上に達した今日においては、諧調はもはや美ではない美はただ乱調にある、今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はただ反逆によるのみである(「生の拡充」)」

 

ああ、俺は理屈を云いすぎた。理屈は鎖を解かない、胃の腑の鍵を奪い返さない(「鎖工場」)」

 

イデオロギー、とりわけて“革命の思想”はすぐれて気質に属する。

 

葉山日蔭茶屋事件(大正五年)

-神近市子と刃物沙汰!

以後、同志は彼をほとんど去ってしまった。「彼の生きざまは羨望の的であり、裏を返せば反感の矢衾を背負っていた」。性的アナーキー、という汚名。

 

「たとえ、大杉さんに幾たりの愛人が同時にあろうとも私は、私だけのものを彼に与え、欲しいだけのものを彼にとり得て、ずんずん進んでゆければ、自分の生活が拡がってゆきさえすれば、十分満足なのです。(「申訳、丈に」伊藤野枝)」

 

機関誌のため、頭山満に金の無心。

頭山は「いま金がない」といって紹介状をしたためる。

宛先は怪人・杉山茂丸

彼は一つの暗示を、大杉に与えた。時の内務大臣・後藤新平に会え、というのである。茂丸の孫にあたる龍丸は『わが父・夢の久作』の中で、事実は、茂丸自身が後藤に金を届け、過激派の首領と、その取締りの親玉を仲介する悪戯を企んだのだ、とうけとれる記述をしている。

  大杉は後藤新平に面談して、あっさりと金を手中にしている。

 

「私のところへ、無心にきたわけは?」

「政府が僕らを困らせている、だから政府に無心にくるのは当然です」

「ようごわす、差し上げましょう。が、ごく内々にしていただきたいな。あなたの同志の方々にも」

 

「したがって夫婦間の誠実は(愛人間のといいかえてよい)男性にとっては努めてなすことである、女性にとっては自然である。それゆえ女性の姦通は、客観的にすなわちその結果からみても、主観的にすなわちそれが自然に反するという点からみても、男性の姦通よりはるかに許し難いのである」by ショーペンハウエル大先生。。

 

 悪魔の子と人は呼ぶだろうと」長女を魔子と名付けた。

 

サラリーマンの平均月収が33円。学生の下宿まかない付で9円。

米価高騰一石=41円。1升50銭也(1918年)。

 

僕は精神が好きだ。しかし、その精神が理論化されると大がいは厭になる。精神そのままの思想は稀れだ、精神そのままの行為はなおさら稀れだ、生まれたままの爆発だ。思想に自由あれ、しかしてまた行為にも自由あれ、そしてさらにはまた動機にも自由あれ。(大杉栄「僕は精神が好きだ」、大正7年)

 

「最高権力(暴力)、個人がこれを所有すれば君主制となり、万人が所有すればすなわち民主制となる。ともかく、最高の権力をだ!国家は権力(暴力)を行使するが、個々人にはそれはゆすされない。国家が暴力を行使するとき、それは法(正義)と名づけられるが、これに対して個人の暴力は犯罪と称される。すなわち犯罪とは個人の権力の謂いであって、国家の上に個人を置くという見解を持てば、彼はただ犯罪によって国家の暴力を打破するほかにないのである」

 

 北は、社会主義社と親交を結ぶ。---時代は左右を弁別しなかった。気質を一脈おなじくする大杉と北は、単に友情のみでなく、共に事を図ろうとしたのである。

(同様に、2・26事件の首領として、北一輝は処刑された。) 

 

“協同戦線”の大原則は、敵目標の一致のほかになく、思想の統一ではない。

 

 大杉には、たしかにそうした茶目っ気侠気がある。

 

前兆はあった。東京中央郵便局にネズミの大群、小包を喰い荒らす。大阪では野犬が横行、十九名を咬む。ネコ突如発狂、名古屋で赤ん坊を引っ掻き殺し、関東一円夜な夜な奇声をあげ屋根の上で猫じゃ猫じゃと乱舞する。群馬で雷獣捕獲、妖気漂う夏まひる。

 正午前一分十六秒、震度7・9&最大振幅は180ミリ、驚天動地の激震は襲った。

 

流言飛語の震源地は当局にあり。

朝鮮人狩り・主義者ノ撲滅」の謀略は、右翼によって暴かれる。革命と維新は、この時点で権力認識を一にしていた。

---大杉栄暗殺は軍部&内務官僚上層の意志であり、甘粕正彦一個人の動機に発したものではないことを、状況証拠は物語る。 

 

 

 

『断影 大杉栄ちくま文庫)』

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『ルポライター事始(竹中労)』

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序盤の檄文のような「序書き」、太字多しだった。

なんにしろ、書き出しがカッコよかった。

 

モトシンカカランヌー、・・・という言葉が沖縄にある。

資本(もとで)のいならない商売、娼婦・やくざ・泥棒のことだ。顔をしかめるむきもあるだろうが、売文という職業もその同類だと、私は思っている。

 

「万国のルポライター団結せよ!」

 

 原稿用紙のマスメを埋め、お話しにならぬ零細な賃金しか得られなくても、知的職業のはしくれであることに満足しているのか?ことわるまでもないが、私は故意に挑発している。諸君、怒りたまえ!

 

 

いささか激越な序に、へきえきをしたむきもあるだろうがページを開きたまえ。もし途中でこの書物をほうり出したら、君は私の友人ではない。

一九八一年二月二〇日 竹中労

 

 浅草六区のストリップ劇場まわりが日課で、正午過ぎから夜十時ごろまで楽屋に入りびたり、コヤがはねるとストリッパーやコメディアンと安酒場に飲みに行く。

 

 

長い戦後の生活からやっとぬけ出して、身のまわりが小綺麗になっていき“家庭のぬくみ”が増していくのに反比例して、私の魂はすさんだ、酒を飲んでは暴力をふるい、果ては刃物三昧の立ちまわりという明け暮れだった。

 

幼いころから幸福というものに縁薄く育った私は、いつしかみずからをヌキサシのならない窮地へ、修羅場へ追い込まないと、生きている甲斐のない男になってしまったのかも知れない。 

 

 

むしろ差別の奈落に居直って、お上品な連中に糞まみれの怨念を、スキャンダルを投げつけることこそを愉快としなくてはならない。

 

芸能界が下らぬのではなく、芸能記事が下らないのである。タイトルを拾ってみるがよい、そこには批評もなければユーモアもない。

 

連合赤軍”坂東国男の父親がマスコミの曝しものにされた首をくくったのと等しく、姉ひばりの興行は公共施設からしめ出される。それは公序良俗に名を借りた全体主義ではないのか?

 

吉永小百合と岡田太郎の結婚、これは近親相姦のテーマである。

親父の多分に性的過保護の監禁から脱出した小百合は、やはり父親的男性のふところに飛び込んでいった。いかにも低俗な話である。しかし低俗であればあるほど、人間心理の真相に端的にかいまみせてくる。

 

社会の表層にあしかびのように浮薄にただよう芸能者の群を通して、物質文明の根底にある虚栄への願望とその裏返しである侮辱、すなわち差別意識の上昇・下降の回路をえぐり出すことが、芸能記事の要諦なのである。

 

スキャンダリズムとは、一を十に拡大することとはちがう、センセーショナリズムとは、かならずしも同義ではない。“醜聞”は、つねに氷山の一角でなくてはんらない。十を知って一を書くこと、白刃鞘の内にあって相手を斬らねばならぬのである。 

 

光文社の『女性自身』創刊の年、文京区音羽の旅館にさらっていった。

---読売の河上氏は、後の推理小説作家・三好徹である。 

 

このころから心中ひそかにマルキシズムを疑いはじめた。

 

・・・人は無力だから群れるのではない。あべこべに群れるから無力なのだ。

 

言葉の正確な意味での、自由業である。 

 

 

1970年秋、『週刊読売』に連載中の人物評論「エライ人を斬る」を、時の総理夫人・佐藤寛子の干渉で 中断されたときに、私はこう考えた。 

 

それはえんぴつ無頼の竹中労にとって、まさに上に向かっての堕落である。

 

ペテン師森繁よ、あなたの芝居でカメラマンI氏は失職し、光文社の若い編集者は続々と会社を去っていく。編集幹部のヘッピリ腰もけしからぬが、このような事態に追い込んだ責任は全面的にあなたにある。いつの日かこの事件の決着をつけることを、私はここに明確に宣言しておく。

 

今日ただいま、私は浮上を開始する。ゆっくりとだが確実にあなたと拮抗し、あなたを撃つ水平線に私は登場して、あなたを筆頭人とする芸能界を破壊の射程に入れよう。一個の人間の執念をおそれよ、私はあなたに対して活字の暴力を仮借なく行使することをここに誓う。(一九六三年三月十日)

 

職業とは生活の手段である、だがそれは同時に(それ以上に)、人がおのれの望みをいかに生きるかという試練の場なのである。

 

 

 『処女膜から声が出てない』というネットスラング

 

 

当時は、浅草六区ヒョウタン池があって、

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読売新聞をレッドパージで追われ、左翼独立紙『東京民報』の創刊に参画した彼(徳間康快)が、日共と浅からぬ関係にあることはとうぜん理解できた。だが、自民党の悪口もとは信じられないことであった。やがて応接室で現職の労働大臣である某と偶然かちあったりするうちに、しだいに事情がのみこめたのである。

 

世界に誇る精神文明をアメリカは映像の他に持たぬから、怒るのは当然である。

 

つい三年前この街を焼いたのは、その国家・軍閥・官僚であったはずなのに。 

 

堕落するべきときには、まっとうに堕ち、まっさかさまに堕ちよ!

 

五木寛之がカツドンのエッセイを書いておったが、戦後はじめて食ったカツドンにまさるカツドンにいまだめぐりあっとらんという言たるや、この人にはまれな真実である。

 

自分は乞食のような人間である。まったくもってどうしようもなく欲望にもろい、陋劣きわまる人間であると私は思った。

 

上野の地下道に出入りするようになり、あの無惨な光景を見たのは九月もそろそろ末のことであった。---容赦なく殴りつけ蹴りとばしてトラックに追い上げる。暗闇にそれが行われたのは、衆人の目をさけたのであろう。民主警察のタテマエなどどこ吹く風の暴虐ぶりを目撃して、魂が凍るのを私はおぼえた。

 まさしくチリ芥のごとく、人々は地下道を追われた。そして無惨な光景はその後に現出したのである、放水がはじまった。再び人々が戻れないように、地下道は水びたしにされたのだ!---何という残酷なことをするのだ、これが人間の人間に対する仕打ちかと、肚の底から胴ぶるいする怒りが噴き上げてきた。

 

 

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『異論のススメ -保守とは何か-(佐伯啓思)』

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保守とは、その国の伝統と歴史に対する深い理解と教養に立脚した態度であると過程するならば、安倍首相の教養のなさと思慮の浅薄さは「保守」なるものと相容れないと言えるだろう。

また、アメリカという伝統のない歴史の浅い国で保守を語るとき、それはどういう態度を指しているのだろうか。

 

かりに伝統への回帰を「保守」というならば、アメリカの「保守」とは、自律した個人、自由主義、民主主義、立憲主義などへ立ち戻ることである。ここに宗教的・道徳的価値をつけ加えればよい。

 

これに対して、「リベラル」は、20世紀の多様な移民社会化のなかで、文化的多様性と少数派の権利を実現するようなひとつの共同社会としてのアメリカを構想する。ここに、イギリスなどとは異なったアメリカ型の「保守」と「リベラル」の対立が生まれたのである。

 

さて、それでは日本はどうなのか。われわれは、アメリカとの同盟を重視し価値観を共有する者を「保守派」だという。安倍首相が「保守」なのは、まさしくアメリカとの同盟重視だからだ。するとどうなるか。アメリカと協調して自由や民主主義の世界化を進め、たえざる技術革新によって社会構造を変革することが「保守」ということになる。

構造改革にせよ、第4次産業革命にせよ、急進的改革を説くのが「保守」だというのだ。

 

私は、保守の本質は、近代社会が陥りがちな、急激な変革や合理主義への抵抗にある、と思う。

 

 

『プラットフォーム(M・ウェルベック)』

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性的な充足をセックス産業から得ていた僕。

旅行会社でキャリアアップを重ねていた恋人との性的耽溺。

セックス観光のある企画によって、かれらは絶望的な夜に遭遇することになった。

 

僕は礼儀正しく、真面目で、上司からも同僚からも評価されている。しかし人間味が薄いせいで、真の友人関係がつくれないでいる。早くも夕暮れがリジュー近郊を包もうとしていた。なぜ僕はマリージャンヌのように仕事に熱くなれないのだろう?---なぜ人生に熱くなれないのだろう?

 

ヴァレリーは我慢出来なくなって自分からベッドに倒れこみ、股と広げた。ベレニスはその前に跪き、陰部に舌をあてた。一瞬にして下腹部が熱く引きつった。ヴァレリーは自分の魂が天空の無限空間に入りこんだような気がした。こんな快感があるなんて考えもしなかった。

 

十一歳のとき、ある少女がはじめてマンコを見せてくれた。僕はすぐに魅せられてしまった。しの割れ目のある奇妙な器官に夢中になった。毛深くはなかった。少女は僕と同い年だった。名前はマルティーヌ。彼女は長いこと股を開けっ放しにしていた。すると今度は僕に見えるようにパンティをまくった。しかし僕が手を近づけると、彼女は恐れをなして、逃げだした。すべてが昨日のことのようだ。僕は自分がそれほど変わったと思えない。マンコに覚える昂奮は衰えていない。それは僕に残された人間らしい特徴、どうにか人であるとわかる残り少ない特徴のひとつだと思う。

 

「この雑誌はよく理解できないわ」彼女は滔々としゃべる続けた。「出てくるのはモードや新ムーブメントのことばっかり。必見、必読、しなくちゃいけない理由、新しい話題…そもそも読者はモデルと同じ服を着ることなんてできないのに、なんで新しいムーブメントに興味があるのかしら?読者はだいたいがオバサンばっかりなのに」 

 

「まるで嫌いになった恋人について語れと無理強いされているようなものだ。。。」

 

 

レイシズムの特徴はまず」ロベールは僕を横目で見た。「増大した反感、人種の異なる雄のあいだで激化した競争心だろう。しかし、それは相手人種の雌への性欲の増大から生じた結果なんだ。ほんとうのところ民族闘争はなにを賭けて闘っているかというと・・・」ロベールははっきりと断言した。「経済的なものでも文化的なものでもない。生物学的なもの、獣的なものを賭けて闘っている。つまりそれは若い娘のヴァギナをめぐる闘いなのだ」早々にもダーウィニズムに突入しそうだった。 

そのときウェイターが僕らのテーブルに戻ってきた。四十七番の娘もいっしょだ。ロベールは彼女の方を見上げ、しばらくのあいだ見つめた。「うむ、いい選択だ..」彼は陰鬱な調子で断言した。「淫乱そうな娘だ」その娘は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。僕は彼女のスカートのなかに手を入れ、護ってやるように尻を撫でた。彼女は僕にすり寄ってきた。

 

タイの娼婦の三人にひとりがHIVポジティブだ

 

僕は相変わらず彼女のなかにいた。

 

 要するに、空港のブティックというのは「その国らしさ」を残しつつも、危険を排除し、「らしさ」を弱め、世界共通の消費スタンダードに十分に適応した空間なのだ。それは最終行程にある旅行者のための仲介的空間、その国で最もつまらないと同時に最も平凡な空間だ。僕は世界全体が空港に似てきつつあると思った。

 

第二章

午前十一時、飛行機はロワッシー空港に着陸した。僕は一番乗りで荷物を受け取った。十二時三十分、僕はすでに家にいた。土曜日だった。やろうと思えばなんだって可能だった。出掛けていってショッピングするとか、部屋の模様替えのために雑貨を選ぶとか…。---わざわざやってみるだけの価値のあることはなさそうに思えた。僕はローストチキン、グラーヴを二本、『ホットビデオ』の最新号を借った。終末にしては野心の貧しい選択だった。 

→こんな調子で、午後三時過ぎ、旅行先で知り合ったヴァレリーに電話をする。

 

僕は宇宙に消え去り、性器だけが生きていて、信じられないほど烈しく押し寄せた悦びに貫かれている。そんな感じだった。ゆっくりと何度も射精した。最後の最後になって、自分が叫んでいることに気がついた。こんな瞬間のためなら死んでもよかった。

 

ワンルームを借りる段段になって、彼女は気がついた。自分は罠にかかった。これからはずっと労働者会のなかだ。

 

知らない女をひっかけること、その女とセックスすることは、とりわもなおさず侮辱と頭痛の源だ。まず、うんざりするような会話、若い娘をベッドに連れこむためにはそれに耐えなきゃならない。そして、たいていの場合、相手に幻滅してしまう。ーーそして少なくとも朝までは、厭でもいっしょに過ごさなくちゃならない。こうしたことを考えれば、男がはした金で大きな安心を買う方法に逃げたくなるのも無理はないと納得できるはず。ある程度、年齢を重ねた人間は恋愛を避けるようになる。

 

要するに、彼女達もセックスに金を払うようになる。そしてセックス観光に向かうことになる。女子達は男性的な価値観に順応できるんだ。ときには不器用な女性もいるけど、順応できないことはない。それは歴史が証明している。

 

僕はこの退屈で濃密な本が好きだった。うっかり同じページを三度も四度も読んでいることもざらだ。 

 

ショーペンハウアーがどこかでこんなことを書いている。「人が自分の人生で憶えていることは、過去に読んだ小説よりほんの少し多い」まさにそういうことだ。ほんの少しだけなのだ。

 

一度アジア料理に挑戦しようとした。しかし僕には複雑すぎた。思いもよらぬ分量のバランス、特殊な野菜のきざみ方、ほとんど別の精神構造で成り立っている。

 

公の機関で働く場合、決断はベストにこだわる必要はないのだ。

 

とりわけ彼(ベルトラン・ブルダヌ)らしい作品は、若い女のパンティの中で肉を腐らせていくとか、自分の排泄物で蠅を育て、展示会場に放置するというようなもの。

 


マリリーズがパリ行きの電車の中で輪姦されるシーンは、当然この物語のその後の暗示にも取れる。

 

イルカって厳しい上下関係がある群れをつくるんだけど、一頭ボスがいて、そいつが牛耳ってる。それにかなり攻撃的よ。

 

欧米人は完全に贈与の感覚を失っている

 

タイの場合、旅行ビザによる滞在期間は通常一ヶ月しかない。しかし延長したければ、一度国外へ出て入国し直せばいいだけだ。パタヤにあるいくつかの旅行代理店はカンボジア国境への日帰り往復ツアーを企画している。

 

 

訳者あとがき

「人生がおぞましいものになればなるほど、人はそれにしがみつこうとする。よって生きるということはつねにひとつの抗議であり、不断の復讐なのだ。」とバルザックは『浮かれ女盛衰記』のなかで書き、ウェルベックはそれを自分の小説の巻頭に掲げた。

 

読んで気持ちよくなれるタイプの本ではない。慰めもない。むしろ痛みの増すような本だ。それでも彼の本が多くの人に読まれているのは、生きることの第一義が幸せの追求ではないからだ、とわたしは思う。 

 

 

訳者が言い得ている。

彼の本には、多分に人類に、人間に体する暗示的内容でありながら、ほとんど救いもない。それでもどうして読みたくなるんだろう。彼の言っていることを真に受けて皮肉をまとって生きていきたいからじゃない。それは、彼の小説に、なにか別の価値や生き方を類推させるような力があるからだ。

 

 

 

 

『プラットフォーム(M・ウェルベック)』

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『竹中労(KAWADE MOOK)』

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竹中 この世の中に面をさらしたい、有名になりたい、ゼニは稼ぎたい、自分の生活は隠しておきたいなんてムシのいい話はないでしょう。

 

SEXとは見るものではなく、行うことであったから。ゆえに人々は健康だった。性を抑圧されてノイローゼになり、電車の中で娘たちの尻を撫でたり斬ったりして、警察のご厄介になる破家はいなかった。そもそも。痴漢という観念はなく、人みな助平であることこそ常態だったのだ

 

無限に連環する森羅万象を有限のフレームに切りとる営為は、すぐれて虚構でなくてはならない。活字にせよ映像にせよ、ルポルタージュとは主観であります。「実践」といいかえてもよい、ありのままなどという、没主体であってはならないのです。

 

取材における大前提は「予断」であると断言する。ありがちな「予断を捨てよ」ではなく「予断を持て」と奨励する。予断とは思い込みであり、主観と云い直すこともできる。その主観が現場で翻弄され、時には新たな主観を組み直すことを余儀なくされる。 

 

ただしルポルタージュとはありのままの現実を客観的に描写するものだと思っている人が世の多数派であるとの前提(予断)を置くならば、そのルポルタージュを仕事にしながらありのままを否定することは、並大抵の胆力ではないとの見方はできる。

 

政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。(中略)人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。坂口安吾「続堕落論」)

 

全てを系譜的に読まねば!

 

国電の網棚の上に読みすてられるイエロージャーナリズムに、私にとっての“言論の自由”はある」(「決定版ルポライター事始」)

 

90年代初頭の上野公園や代々木公園には、多数のイラン人労働者の姿があった。

 

一九六三年の映画『下町の太陽』(山田洋次監督)では、東京荒川沿いの下町に住む倍賞千恵子演じる女工が、荒川を渡る電車に乗りながら「団地に住みたいわ、郊外の団地に」とつぶやいたように、団地は若い夫婦、その予備軍である若者にとって憧れの対象だった。戦後の劣悪な住宅事情と違い、文化的で清潔な暮らしが望める。そんな団地の入居希望者は多く、当選倍率は十数倍から数十倍になっていた。

 

ブルジョワ性とたたかう

 

団地への希望の喪失は一九七一年に日活がアクション映画中心から路線転向してポルノの製作に移行した第一弾としてつくられた『団地妻 昼下がりの情事』においても描かれた。

 

 

 

竹中労---没後20年・反骨のルポライター (KAWADE道の手帖) 

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『微笑(小島信夫)』

 

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戦地から復員してはじめて、四歳になった息子と出会った。

僕がはじめてじぶんの息子にめぐりあったのは四年ぶりで戦地から復員した時で、僕は自分の息子であるというより、何か病気の息子であるようなかんじにおそわれた。

 

僕はそうしながら、痺れるような快感を味わっていたのだ。僕はもちろん自分が一個の悪魔にちがいなかったが、実は小悪魔を退治しているような感じであったのだ。

 

 

 

 

僕は長い狂暴な軍隊生活でおとなしい生活を送り、人のからだにふれたこそさえなかった。その僕がこんなことをするのは何故だろう。これほどのことが出来るならば、僕は自分に用心をしなければならない。

宗教に入るか、

精神修養をするか、

ほかの動作でくいとめるか。

 

まもなく僕は幼稚園にひびきわたるような大きな声でどなっていた。僕は子供らを叱り順々にブランコにのさせて監視をつづけた。僕は熊のように昂奮し、はげしい息づかいをしていた。

 

「坊やは治りたいか」

僕は汽車の中でこういう愚問を息子に発した。僕は息子が、治る治らぬということさえ気がつかないことをのぞんでいた。息子はそれにただ微笑しただけだった。

僕は微笑の意味を知りたいと思った。僕は息子の微笑にあうと、土俵の外へいきなり放り出されたような感じがした。 

 

僕は狭い部屋がわれるように叫んだ。僕は妻に向かって云っていたのだ。いやそうではないかも知れない。僕はこの親二人を代表して誰かに、見えざる監視者たとえば神に向かって、威丈高になって見せていたのであろう。 

 

補導員は説明し、浮いて見せ、おどけて見せ、賞賛していた。その様子を見ているうちに、何か補導員の方が異常ではないかと思えてくる程の、誇張された善意がみなぎっていた。僕はその善意の氾濫に目まいがしそうになった。

 

「よかった、よかった」

とくりかえした。口ではそういったものの、僕はなれ合いのかんじでそれ以上つづけることが苦痛であった。

 

 

 

『殉教・微笑(小島信夫)』

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西野カナの「トリセツ」のMVがキモい。歌詞世界を映像化するプロセスでどう失敗するのか。

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晴れた日曜日の午前中にMTVを視ていて、ふと思った。

「いや、西野カナの『トリセツ』のMV、キモい。」

今更な感もあるけど(発表当初にも話題になったのかな?)。

 

このMVを目にして、ざらっとした何かが残った。
違和感?既視感?嫌悪感?
この気持ち悪さはなんなんだ!!?

 

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舞台の上に均等に配置され、坐らされた女の子たちは百貨店のショーウィンドウに並ぶ何らかの商品に見立てられているように受け取れる。

おしゃれをして着飾り、バッチリショーアップされた女の子たちが、一人一人立上がっては自分の特徴や性格らしき歌詞を読み上げる、それを観客席にいる彼氏達が品定めするかのように注視している、という構図だ。いや、物色か。「俺はこいつに決めた!」

 

「トリセツ」とは、「取り扱い説明書」のこと。

つまり、この歌は、私(彼女たち)の扱い方、私との付き合い方、コミュニケーション上の注意やポイントをあれこれ並べたてる構成になっている。

 

きっとそこには、世の女性(彼女)たちが、彼氏の前で自覚的に発揮しているテクニックやコミュニケーション上のリアリティが多分に存在しているんだと思う(そう、だってそれで食ってるんでしょこの歌手は)。

 

「私ってこういうところあるから分かって(多めにみて!)」「でも私だけでなくて女の子(※ときに一般化)ってこういうところあるの(知っておいて!)」。

 

今回も西野カナ女史はいつも通り彼女らしい恋愛価値に没入し、

「取り扱い説明書」や「扱い方」という切り口で彼女の歌詞世界を編んていったに過ぎない。

会いたくて震える 西野カナのことだ。

こういう見立ても、したきゃすればいい。

 

ただ単に、映像化したときのセンスが決定的になかったということだ。

ビジュアル化した人間のセンスの問題だと思う(まあ、何でもセンス問題にしてしまえば、それまでなんだけど。。。)。

 

「彼氏の前にいるときの女性のリアリティ」や「男女の心の交わし合い」みたいなものを映像として描きだす想像力や技術に圧倒的な不足があるんだと思う。

 

まあ、西野カナ女史のその歌詞やワーディングそのものにも突っ込みどころは多分にあるのだが。

 

ご使用の前にこの取り扱い説明書をよく読んで

ずっと正しく優しく扱ってね

一点物につき返品交換は受け付けません。

 

そして何と言ってもクロージングの

永久保障の私だから 

 

映像的なミスリードをさせるきっかけは、多い。

 

いざ映像化する段になったときにそれをどう描くか。

マスター映像が出来上がってきたときに、それをどう受け取るか(チェックするか)。

そこにこそ仕事への矜持というか、職業的センスが問われるんじゃないだろうか。

 

映像というものは受け取る人間にとっては分かりやすい。

余計な想像力はなるべく節約して、そのままに受け取られる余地が多い。

しかし、映像はそれがゆえにメッセージや伝えたい世界観や雰囲気をしっかり伝えてしまう。それはもう身もふたもないままに。

 

最近こういった映像化におけるトンマナチェックミスとかセンスレスで炎上してる報道が増えたような気がする。

映像のアウトプットって、その企画や実際の作業に入り込んだ人間以外の視点や感覚が欠けてしまいがちだ。部外者のチェックが過程で入りくい。

で、マスターが出来たら最後、修正が利くレベルなら直しもあり得るが、

基本的には、もう出来ちゃったし、作り直すのに時間もお金もかかるし。

 

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市町村とはいえ、地方自治体がこの辺のトンマナわかんないっつうのは、、つらいよなあ。

 

映像作るプロでもこんなザマだ。

素人がを何をかいわんや。 

 

ちなみに、件の「トリセツ」。

MTVのカラオケTOP100で、5位です!!(16年10月2日現在)

今日もどこかの歌広で、トリセツを歌う女子大生が。。。

 

 

 

似たようなことを感じた人たちは多い