『ダラスバイヤーズクラブ(2014)』
テキサスはダラス。
ロン・ウッドルーフ(マシュー・マコノヒー)。
掛け金持ってトンズラこいたりする、ロデオ仲間の荒れた生活。
闘牛場の視覚で女を抱く。オカマとか大っ嫌い。
でもHIVポジティブで、余命30日と診断される。
メキシコまで行って、HIVの違法薬物を輸入。
それら(HIV治療薬)を売りさばく会社を設立。
HIV治療薬を扱う個人商社。
テキサスの病院で治験的使用がされていたAZTは毒性が強かった。
それでも生きたいロンは、AZTをオカマのレイヨンから手に入れていた。
彼が各国から密輸して売り捌いていた治療薬はそれよりいささかマシだった。
(日本に出張、渋谷の病院に赴き、インターフェロンを輸入)
FDA(アメリカ食品・医薬局)から目をつけられる。
莫大な利益のために危険性もある新薬を試したい病院と、
違法治療薬を輸入して売りさばくカウボーイ。
途中からどっちが正しいのか、否、間違ってるのかがわからなくなる。
次第に、オカマのレイヨンとの間に友情もめばえて、
オーガニックとか食べるものにも気を遣うようになる。
おめかししてどこに行くのかと思ったら、
主治医のイブとディナー。
なんだか彼女もうれしそうだ。
事務所スタッフに「ウチもお金が」と言われると、
「車を売れ」と返したとき、彼がほんとの慈善家に見えた。
「いつかは重い腰をあげて、仕事しろよ!」
ほんっとメチャクチャだけど、優しい奴だ。
裁判に負けてオフィスに帰ってくると、みんなに拍手で迎えられた。
実話に基づく話。
『見過ごされてきたもの』(2016年11月17日付 朝日新聞)』
社会について語る場面では、真実を口にしていたのはトランプ氏の方でした。
彼は「アメリカはうまくいっていない」と云いました。ほんとうのことです。「米国はもはや世界から尊敬されていない」とも言いました。彼は同盟国がもうついてこなくなっている真実を語ったのです。
クリントン氏は、仏週刊誌シャルリー・エブドでのテロ後に「私はシャルリー」と言っていた人たちを思い出させます。自分の社会は素晴らしくて、並外れた価値観を持っていると言っていた人たちです。それは現実から完全に遊離した信仰告白に過ぎないのです。
トランプ氏選出で米国と世界は現実に戻ったのです。幻想に浸っているより、現実に戻った方が諸問題の対処は容易です。
民主主義という言葉は今日、いささか奇妙です。それにこだわる人はポピュリズムを非難します。でも、その人たちの方が、実は寡頭制の代表者ではないでしょうか。大衆層が自分たちの声を聞かせようとして、ある候補を押し上げる。それをポピュリズムといってすませるわけにはいきません。
人々の不安や意思の表明をポピュリズムというのはもうやめましょう。
自立やフェア(公正)であることを好み、大きな連邦政府による再分配やアンフェア(不公正)を嫌う。思想的、宗教的な深い部分に根ざす感覚です。
『トランプ大統領と世界』イマニュエル・ウォーラーステイン(2016年11月11日付 朝日新聞)』
しかし、世界に目を向けると、トランプ大統領の誕生は決して大きな意味を持ちません。米国のヘゲモニー(覇権)の衰退自体は50年前から進んできた現象ですから、
今の米国は巨大な力を持ってはいても、胸をたたいて騒ぐことしかできなゴリラのような存在なのです。
右にしても左にしても、先鋭的な集団は内側からの批判を恐れ、どんどん極端になっていく危険性があります。
『グローバル化への反乱』ヴォルフガング・シュトレーク(2016年11月22日付 朝日新聞)』
なぜ自分があんなにもヒラリーを応援していたんだろう。
それはトランプに対する、生理的嫌悪でしかなかったことに気付かされる。
ルールを破り、タブーに触れ、汚い言葉を使う嘘つき。
そんな奴に、大国のリーダーは務まらないし、なってはいけない。
じゃあ、マナーやルールは守るけれど、今まで通りの奴にこの苦境を打開できるのか。
今回の大統領選は、ある種のアメリカ的なプラグマティックな決断なのかもしれない、ということにようやく思い至った。
グローバル化に対する一つの答えは、『よし、みんなでスウェーデンになろう』です。しかし、スウェーデンは腐敗のない政府や労働市場、教育に対し、半世紀以上にわたり投資を続けてきた国です。小国ゆえ、競争力と社会的平等を両立出来るポジションを、世界経済の中に見つけることもできました。
重要なのは、そのスウェーデンですら1990年以降、格差の拡大が世界的にも最速で進んだということです。資本の移動が自由になったからです。企業が課税に抵抗するようになり、投資を国内にとどめておくため、政府が税率を劇的に引き下げたのです。
国家までが国際競争にさらされた結果、福祉国家であることがとても高くつくようになりました。 グローバル化した資本は、規制や労働組合、高税率といった『社会主義の檻』に我慢出来なくなった。
やはり金融緩和に頼ったアベノミクスは、目標をまったく達成できずに失敗しました。他の国も含め『時間かせぎ』はそろそろ限界です。いつかの時点で、借金取りが回収にやってくるのです
いまの成長を阻んでいるのは格差です。お金は、それを使わないお金もちのポケットにたまっているだけ。人々の不満が高まり政治が不安定化したことで、投資もしづらくなり、人を雇うよりも金融市場で投機的に利益を上げようという考え方が幅をきかせました。
こうした民意の反乱は、エリートが当てにならない場合に出てくる、先々に望みのある反応です。ときに醜い形をとりますが、墓地のような静けさを保ったままでは、なにも変わりません。
ドラギ(欧州中央銀行総裁)やイエレン(米連邦準備制度理事会議長)は、あたかも長期的な戦略があるかのように振る舞っていますが、実際に完璧なプランなどありません。
『ナニワ金融道 8巻』
名作回との呼び声高い単行本8巻は、
舶来物タイヤを用いたマルチ商法。
府警のダメ刑事 浴田山海。
若きマルチ商法の総代理店 枷木。
社歴と経験を積み、こ慣れてきた灰原に対して協調する(したかに見える)パートナーが現れたときストーリーは躍動しているような気がする。
ファミレスで灰原をマルチの網に落とそうとする、輩4人。
彼女である朱美の射程の広さ。
こういう台詞を吐かせるのは、波瀾万丈で人生(仕事)と格闘している人間であるがゆえの充足感から出る者にのみだ。アゲマン偏差値高し。
つくづく、一枚上手な女感。
つまり我々の知らないところでこうしたリストが作成され、売り買いされていく。ターゲットが高い確率でセグメント化されたお宝リスト。闇リスト業者。
ここ数年の筋の方々の使用者責任を問うのも、その一端ですよね。
受話器越しの相手の緊張感の欠如を見抜くのも、金融屋灰原の職業勘だ。くっ、この男やるな!
『17歳のカルテ』
99年。原作はスザンナ・ケイセンの自伝『思春期病棟の少女達』。
ウィナノ・ライダー、アンジェリーナ・ジョリー。
レンタルビデオ屋ではしばしば目についたジャケットが、なかなか手に取る機会を失っていた(なぜだろう、女二人の話だろうとタカくくったからかな)。
自身も境界性パーソナリティ障害で精神科入院歴があるウィナノ・ライダーが権利を買い取って製作総指揮したという力の入れよう。
その一方で、リサを演じてアカデミー助演女優賞、ゴールデングローブ賞助演女優賞、全米映画批評家協会賞新人賞と総なめにしたアンジーに嫉妬するような発言もあったとか。要は食ってたんだな。アンジーが主役を。
(恋人、つうか寝ただけの男?のトビーが)
徴兵委員会が俺の誕生日を引き当てれば、俺はもう終わりさ。
全体、リサが病院内のリーダーかつトリックスターとして躍動する。
7〜8人で病棟を抜け出して、ボーリングとか心療医の執務室に行ったり夜の遊び。
外出して、雪の日にアイスクリームパーラーに行ったときにかち合わせた教授夫人(スザンナが夫を寝取った夫人)が絡んできたとき、噛み付いたのがリサ。
まだ来でねえ〜。教授夫人〜。
とにかく破天荒で加減を知らないリサに対して、
スザンナは友情とか信頼みたいなものを獲得したのは間違いない。
この病棟で、あなたはまとも。
あなたはただの怠け者のわがままよ。
自分を壊したがっている子供よ。
(リサは、退院したチキン屋の娘のデイジー(ブリタニー・マーフィー)が父親と近親姦であること見破る)
あんたがパパにやられてんの、みんな知ってんだからねーっ
ここにずっといちゃダメよ。わかる?
物語の終盤。
スザンナは書くことに没頭した。
最後の夜、目を開けると誰もいない。
リサが地下で日記を朗読していた。スザンナの日記だ。
そこには冷静な観察者としてのスザンナが、病棟の患者(友だち)のことを記録していた(それは、仲間うちだけに見せる彼女たちの素直な部分と、観察者としての冷静な視点とを織り交ぜたもので、密告に近い雰囲気だ)。
つまり、「まともな人間が精神病棟に入ったら」という物語のアプローチだ。
観察者としてのまともな人間を演じたライダーが、トリックスターとして躍動したリサを演じたアンジーに、勝てるはずがない。
『インターステラー』
2014年、C・ノーラン監督。
小麦は疫病で全滅。トウモロコシも灰砂で覆われてろくに収穫出来ない世界。
インド空軍のドローンを追いかけて、ハッキングコントロールする。
インドもアメリカも空軍がなくなって10年経つという。
そこは、科学が敗北している未来。
アポロ計画も「ソ連を破綻させるための」ねつ造だったとされ、科学ではなく現実が愛され、農夫になることが奨励される。
つまり、権力も軍隊も労働力においても全ての源は食糧である、とここで暗示されている。
昔、人は星を見ると「向こうに何が」と思った。
今は下を見て、足下の砂の心配だ。
科学好きの娘マーフ(アン・ハサウェイ)に泣きくされた別れ方をしてしまった、宇宙に飛び立った元宇宙飛行士の父クーパー(マシュー・マコノヒー)。
宇宙と時空を隔てたこの物語全編で「相対性理論」が、そして肝心な場面で「愛」が鍵を握る。
親は子供の記憶の中で生きるって。
何千光年離れた、地球に条件が似た星では海中に着陸した。
やがて何千m級の大波が。
地球からの何千光年離れた宇宙へのメッセージ。
27年分を見ながら、泣いたり笑ったり。
ネタバレだし、絶対コピー化出来ないが、
ズバリ本質的で象徴的なコピー出しをするとしたら、
幽霊は、時空をさまよう父だった
だろう。
5次元空間から、娘にデータを贈る。
重力は時間も空間をも、超越する。
何で伝える、愛だ。
(こういう物語が教えることは、「やっぱり親として、子供が言ってることは信じたいな〜」ってこと。形だけでなく、本当のところで。)
パパが約束したから。
父を娘が再会する星では文字通り重力が時空を超えた世界が。。
多分にSFで、多分にノーラン的。
映画ってこういうことが出来るんだ。
『科学の発見(スティーブン・ワインバーグ)』
新聞各紙の書評でも話題になっていた。
理論物理学者で、79年のノーベル物理学賞受賞者スティーブン・ワインバーグ(量子論の統一理論第一歩)の著書。
私は現代の基準で過去を裁くという危険な領域に踏み込む。
本書は不遜な歴史書だ。過去の方法や理論を、現代の観点から批判することに私は吝かではない。
破れた対称性にせよ、破れていないあ対称性にせよ、正しさの証明は実験によって結果を確認することでおこなわれる。そこには、人間社会の出来事にあてはまるような価値判断は含まれていない。
こうしたギリシャの思想家たちを理解するには、彼らを物理学者や科学者だと考えないようがよいように思われる。哲学者とさえも思わないほうがいい。彼等はむしろ詩人とみなされるべき存在である。
ここで言う「詩」とはつまり、自分が真実だと信じていることを明確に述べるためというよりは、美的効果のために選択された文体、という意味である。
「緑の導火線を通して花を駆りたてる力は ぼくの緑の年齢を駆りたてる」というディラン・トマスの詩を読んで、これを植物と動物の力の統一について真面目に述べた分だと考える人はいないし、そこに証明を求めたりもしない。われわれはそれを、「年齢と死をめぐる悲しみの表現」と解釈する。
数学者たちは、「物理学者が書いたものはいらいらするほど曖昧だと思うことが多い」と言う。私のような、高度な数学的ツールを必要とする物理学者としては、「数学者の書いたものは、厳密さに対する彼等のこだわりのせいで、物理学者にとってはほとんどどうでもいいところでややこしくなっている」と感じることが多い。
実を言えば、アリストテレスの著作には、プラトンのそれにはない退屈なところが多いと思う。しかし、アリストテレスの著作には、プラトンのそれが時折見せるような馬鹿らしさは感じられない。
科学の進歩とは、おもに、どんな問題を問題にするべきかを発見することだったのである。
科学の進歩とは、単なる流行の変化ではなく、客観的なものである。運動について、ニュートンのほうがアリストテレスよりもよく理解していたという事実を、あるいは現代のわれわれのほうがニュートンよりもよく理解しているという事実を、疑うことができるだろうか。どんな運動が「自然な」運動かを問題にしたり、あれこれの物理現象の「目的」を論じるのは、いつの時代にせよ無意味なことである。
紀元前323年のアレクサンドロス大王の死とともにアリストテレスはアテネを去り、その翌年この世を去った。マイケルマシューズは彼の死を、「歴史上最も輝かしい知性の時代の黄昏を告げる死」と表現している。確かにそれは古典期の終焉だった。しかしそれは、科学にとっては、遥かに明るい時代の夜明けでもあった。(それだけアリストテレスの“科学的”知見の影響力は大きかった)
プラトンの考察は宗教に満ちあふれている。
神が惑星の軌道を定めた、と『ティマイオス』で述べているし、惑星そのものを神々だと考えていたかもしれない。
『明日の記憶』
2006年、ちょうど新卒で入社した頃か。原作は荻原浩。
この映画の怖さは、アルツハイマーという病気の症状の現れ方を描き出すリアリティにある。ごく普通のことが思い出せない。当たり前のことが出来ないとき、人は焦るのだ。そして、誰もが少なからず(物忘れや会社生活上の失敗)経験があることだけにこれを観る誰もが自分の胸に手を当ててみるのである。
例えば、8社競合のプレゼンで勝って、クリエイティブの奴にも報告してやろう、と受話器を耳に充てるが、、、内容をまとめて話せない。
例えば、客先とおねえちゃんのいる店に行って飲みながら仕事の話をしている時、外タレの名前が全く出てこない。あんなに有名な、、、、トムクルーズ、、、トムハンクス、が出てこない。。。
そして、明らかにおかしい瞬間が。
部下らとランチに連れ立ったとき、ブッフェ形式の店で先に座っている部下達が見つけられない。。目の前にいるのに、手を振る部下に気付けない。名前なんか呼ばれてんのに分からない。
現実を、現状認識から逃れたくて酒を買う。でも、レジで会計を忘れる。シェービングクリームを最近買ったことも忘れて、家に何本もたまっている。。
妻に疑われ、病院にかかると、ミッチー演じる医師から「簡単なテスト」をされる。
あなたの名前を教えて下さい。今日の日付を教えて下さい。今日は何曜日ですか。
いまから言う言葉を憶えて下さい。さくら、電車、ネコ。。。。
20秒後にこの3つがなかなか出てこなくなる。。
アルツハイマー病で、間違いありません。。
(ものすごく取り乱して)
おかしいだろっ!いくつだ!医者になって何年だっ!!
で、衝動的に病院の屋上まで行く。
気がついたら日記を書いていた。
もし、今の自分が消えてしまうなら、書き残さなければならない。
客先とのアポをすっぽかす。
時間に余裕を持って外出したのに、見慣れた渋谷の雑踏で道に迷い、
部下に電話する。
助けてくれ!道に迷った!
やがて妻を見ても、他人のような反応をしてしまう。。。
アルツハイマー病の人間にとって人前でのスピーチなんて、本当に恐怖なんだよな。。
この映画の映像的演出的白眉は、妻(樋口可南子)が頭から血を流す圧巻のシーン。
なぜ彼女は血を流したのか。
画面の中で起こる突然の出来事に、観る側も瞬時には理解できない。
血管でも切れたのか?
しかしそれは、病に挑む二人の夫婦の関係を描く上で決定的な出来事だった。
『パッチギ!』
2004年、井筒和幸監督。
日本では差別され、肩身の狭い思いをしている(朝鮮人)側の、
それでもヘコまされないたくましさとか、健気さとか、力強い魅力を描く。
もはや日本人が失ったかもしれない、男の熱さ。
健気ながらたくましく生きる、美しい女子。
役どころといい、とにかくとにかく沢尻エリカが一番可愛い頃だ。
冒頭、日本人の高校生にちょっかい出された女生徒たちの仇として朝鮮高校のとった報復は烈しい。失うものがなさそうな、青春のこの無敵感には憧れるものがある。
金将軍の軍隊は団結力あるからなー
京都中敵だらけやしなー
高校の、国のメンツをかけた喧嘩、恋愛。
学ランの裏地に「天下統一」、一方は「祖国統一」。
「兄ちゃん、明日戦争行け言われたらどうする〜?」
「無理ですよ〜。学校あるし。
いまや『火花』で神谷役の 波岡一喜もいい味出してる。
キョンジャの純血を護る会の会長です
公園で朝鮮人が祖国に帰るキョンジャ兄の壮行会をしているところに、
ギター1本持ってイムジン河歌いにいく。