『銃(中村文則)』
『銃』を再読。
大学生の抱える退屈と狂気。何かとすぐセックスという男子大学生のメンタリティや、銃を持っていることの落ち着きと狂気。
クライマックスは電車の中で。ラスト2行は現代の狂気そのもの。そんな狂気にもリアリティがある(ような気がする)から不思議だ。
ここで描かれた狂気に向かう心情やメンタリティの、やや薄めた形であればわたしも持っている、そう思ってしまったのだ。(それってこの手の小説としてはものすごいことだ)
昨日、私は拳銃を拾った。あるいは盗んだのかもしれないが、私にはよくわからない。
雨はわたしの憂鬱さと象徴するよな降り続き、
私の周囲は退屈に満ちていたが、私は常に機嫌がよかった。
要するに、変化は私の中にあった。
私はあえて、普通の人が普通にやることを、自分でしてみたいと思った。
銃を手にして、これまでの日常が日常でなくなる非日常の生成。
私にはその時、その後を同じように走って追いかけ、彼を殴り倒してみようという考えが浮かんだ。そうすればきっと、彼は驚くし、それを見ている連中も驚くだろうと思った。わたしはその光景を想像し、魅力を感じた。
私はそれからタクシーで女の住むマンションに行き、部屋の中に入った。女はかなり酔った様子だったが、本当はそんなに酔ってはいないのだろうと私は思った。
自分の右の指先から女の匂いがし、私は気分が悪くなった。
私は彼女のセリフが気に入り、それに満足した気分になった。
私は自分の顔を眺めながら、段々と笑いが込み上げてくるのを意識した。私は先走りしているのだと思った。そもそも、私はあの男を殺していなかった。
私はこの間女と寝たばなりだったし、またあの面倒なことを繰り返すのかと思うと、うんざりした気分になった。これも拳銃を手に入れた効果なのだろうかとも考えたが、
こんな所で警官とは難しい、私はそういう何でもない言葉を、自分の表情の中に出そうとしていた。
警官と喋ったせいか、少し気分が高揚した。
彼女の男がクールな奴ならば私は聞き上手な男になる必要があったし、反対に甘えるような嫉妬深い奴ならば、わたしはクールになる必要があった。
私の鞄の中には、拳銃が入っていた。
誰かに盗まれるようなことがあれば、それは私の破滅を意味するように思えた。
御飯を食べるかと聞かれたので、私はいらないと答えた。別に食べてもよかったのだが、ただセックスをする為だけに行くというのをしてみようと思った。
最近のこと(メモ)
今月のところは、以上でーす。
『部長 島耕作(弘兼憲史)』
もうほとんど、各巻のハイライトと備忘録ですわ。
部長 #2
✔︎「つまり国民は公平な分配に慣れてい...」
✔︎中沢社長の辞任と︎ゴールデン街のチャコママ
✔︎初貿の専務として出向。秘書は高市千鶴。で、背中には刺青。
✔︎「しかしまた庭石のように重い女だな…」
✔︎ワインボトルのエチケット(ラベル)
部長 #3
✔︎エーミールと大町久美子。やがて出来る。
部長 #4
✔︎京都すず鴨のかつ子と再会
✔︎プレスティージュ
✔︎サンライトレコード、リストラのミッション
✔︎専務室の盗聴器
✔︎八ツ橋新子を三の線。ガンで「巨星、堕つ」
部長 #6
✔︎弥田くんをリストラ。一旦外部にやり、やがて社長として呼び寄せる。
✔︎娘・奈美がNYでニャッコに契約アプローチ
部長 #9
✔︎雨に濡れ、無様な奥本を家に入れる玲子
✔︎「"いいかげん"でもいいから時々私と会ってね(かつこ)」
✔︎「やけぼっくいに火がつく(かつこ)」
✔︎板前辺見の告白と、島の左遷。
部長#11
✔︎「わかめというよりひじき、いや、もずくと言うべきか」
✔︎販売店の奥様招待
部長 #12
✔︎博多・山笠
✔︎「ありがとう。わたしの寂しさを癒してくれて(夕子)」
✔︎「彼女の顔が東寺の日光菩薩にそっくりなんです(
部長 #13
✔︎「菩薩だ。月光菩薩だ!」
✔︎今野さんの家で飲みながら、取締役就任の連絡を受ける
『課長 島耕作(弘兼憲史)』
課長 #16巻
✔︎タイで現地の運転手ソーチャムに助けられる
✔︎総会屋に脅迫されて、
課長 #17巻
✔︎役員末席(36番目)の中澤取締役が社長に。(木野社長、
✔︎娘からの電話中に大町愛子が自宅までやってくる。コートを開けると裸だった。
✔︎大町久美子、結納を抜け出して島の元へ
『年表で分かる現代の社会と宗教』
社会学者の見田宗介さんが非常に重要なものの見方を提示しています。ある時代をうまくとらえるためには、その時代に「現実」という言葉の反対語としてどういう言葉が想起されたのかを考えることによって、その時代の相みたいなものが見えてくる、と。
日本がどんどん右肩上がりになった時代、この時代に「現実」の反対語として想定されたのは「理想」という言葉でした。
1970年代の終わりから95年あたりまでの次の20年間は、この「現実」の反対語は「理想」ではなくなって「虚構」という言葉になっていった。
つまり、95年を境にして、日本はどういう問題に直面したかというと、極めて宗教的な問いですね。生きているという実感がわかない。そのために、どういうふうにこの生を支えたらいいのか。その課題に出会ったとき、私たちはオウムを突きつけられ、言葉を失った。
イランがアメリカの支援のもとに近代化しようと、資本主義経済を急激に導入したことによって、古き良きイスラムの伝統が失われてしまうという反発がイラン・イスラム革命につながっています。
この数十年の、日本だけではなくて世界的な宗教動向の1つは、個人化した宗教意識、組織をともないわない宗教意識や宗教のかたちが広く台頭してきた、
我々の前の前の世代などでは、お天道様が見ているからとか言いました。あなたの善行はだれかが見ているからという、より大きな支えがあればよいけれども、そうした「大いなるもの」の世界が縮減してしまい、目に見える人間関係だけが生きる世界になってしまった。
我々日本人の自己肯定感というのは、むちゃくちゃ低いんです。なんでそれでも暮らせているのかというと、私たちの属している集団がそこそこうまくいっているという安心感があったからですね。
丸山真男の『日本の思想』の中に、「『である』ことと『する』こと」という有名な章があります。
日本人の場合は、「する」ことよりも「である」ことのほうが決定的に重要である。東工大で何をするかよりも、東工大に入った、東工大生「である」ことという集団の帰属のほうが重要。
その間に日本人は個というものを突き詰めてこなかった。
ところが日本では、あの集団に属していれば自分は救われるんだという発想が私たちの中にはしみついていて、それはナショナリズムにつながっていきます。
いわゆる反社会的な宗教は「生きづらさ」や「むなしさ」が前面に出てきます。
ボランティアといった社会参加に、「生きづらさ」をかかえた若者が多く参入している。
宗教の核心をなすものとして必ず論じなければいけないのは、「超越性」の問題です。
我々羊は、外の人が意味をつくりだしてくれて、そっちのほうがいい、あっちのほうがいいというふうに言ってるだけの群れている羊だけど、そのなかで、自分で意味をつくりだしていく存在こそがツアラトウストラであると言うわけです。
なぜ日本では短期的な評価というものに振り回され、そして、良き種をまくという、その幸せに気づけないんだろうか。
やはり、ある意味で宗教というものは、世代を超えた良き種をまいていく連鎖というものを確信していくということでもあるわけで、そこに超越性がある。
この万物の有限性という認識をもった瞬間、私たちは対の概念として無限という観念を同時に手に入れています。
福田恆存という保守主義者がいます。福田恆存という人は、無限と有限という二元構造を踏まえて世界を見なければいけないと考えています。人間がパーフェクトな世界をつくれるというような理性に対する過信をもってはならないというのが保守思想というものの非常に重要な中核なんですけれど、そのためには絶対者という観念を捨ててはならない。絶対者に対して私たちは有限な存在であり、神ではないのだからパーフェクトな世界はつくれない。
歴史のふるいにかけられて残されてきた常識や良識を大切にしながら、少しづつ変えていくことが大切なのだ。
『人間、この劇的なるもの』という名著があります。そこで福田恆存は、人間は演劇的な動物であると言っています。人間はどういうときに自分の意味を獲得するのか。それは何からも自由になった瞬間ではない。そうではなくて拘束されているということである。自分がいなければ、この場が回らない。自分がいなければ停滞する。わたしがいるから、この家族は安定している。何らかの、そういう私というものを、ある種の「役割」によって認識する。
そして人間は、その役割を演じて生きている。役割を演じ切れたときに、その役割を味わう自己というのがいる。
人間というのは、永遠にそうやって自分というものを獲得していく演劇的な動物である、というのが、福田恆存が演劇論の中から人間というものを構成している論理です。
80年代、オウム真理教が渋谷のマンションでヨガ道場として旗揚げするのですが、
それでいま中国が一番恐れているのは、SGIが中国で布教活動を始めることです、
見返りは、公明党がいつも中国にものすごく歓待されるでしょ。要するに日中関係が悪化しても、そのときに間を取り持つのは創価学会であり、公明党だと。
江戸時代の商品を、何の目覚めもなく今そのまま売っていて、まだそれが売れると思っている、その精神こごがおかしい
宗教が宗教だけに純化していくことに宗教研究者としては一種の理想像みたないものがあるのですが、同時に危険性も感じます。やがて先細りするのは明らかで、どういうふうに社会とつながりをもつか。
考えてみれば、日本の天皇って宗教者ですから。神道におけるトップですから。
平成11年の即位10年のときの記者会見で陛下が、障害者や高齢者、災害を受けた人々、あるいは社会や人々のために尽くしている人々に心を寄せていくことが務めであるとおっしゃったのは、不遜な言い方ですけれども、本当にご自身の役割というものを端的に示されたお言葉じゃないかなとわたしは思います。
『炎の牛肉教室!(山本謙治)』
山本謙治。この人も闘っている。
問題視されることがなかった現状に批評性を持って取り組んでいる。
自分が正しいと感じたことのために。
和牛は「黒毛和種」、「褐毛和種」、「日本短角和種」、「無角和種」の4品種。
A5という格付けは美味しさの評価ではない。
A5やなんかも、88年に牛肉自由化のときに農水省が発明した一つの指標にすぎない。
「サシ偏重」の世の中
サシが入るほど、旨味の少ない肉になる。
牛肉中の脂肪含有量が増加すれば食感は、やわらかくジューシーである。その反面、牛肉中の粗脂肪含量が50%前後まで増加すると、タンパク質含量が減少し、その結果として遊離アミノ酸含量が低下する可能性がある
肉を食べるとうま味を感じるが、これは肉の赤身部分を構成するタンパク質が酵素分解することで生じる遊離アミノ酸に由来するものである。
人為的にサシを入れる技術が、餌に含まれるビタミンAを制限、つまり与えないようにする。「ビタミンコントロール」というよりも「ビタミン欠乏」と言ったほうがよい。
「最近の牛肉には味がない。ビタミンコントロールすることで、サシは入るかもしれないが、その一方で牛肉の味が落ちているのではないか?」
放牧するとどうしても赤身中心で、サシがそれほど入らない肉になってしまう。
牛肉のマーケットが美味しさよりも経済性の追求をしてきたからだ。
屠畜してすぐの牛の肉は、とても味気ないことが多い。
タンパク質の塊である肉は、命を失うと死後硬直し、冷蔵保管しておくと硬直が解け、熟成が始まる。生物が細胞内にもっている自己消化酵素がはたらくことによって、強固に結びついたタンパク質が分解されるのだ。
大型回遊魚であるマグロは、しばらく寝かせないと味も香りも出ない
ドライエイジングの場合、日本では45日前後の熟成期間をとることが普通である。湿度と温度をコントロールした冷蔵庫内で風をあて、肉を空気に触れさせた状態で熟成する。
芝浦の市場に出荷された松坂牛が一頭200万円以上する
全国的に牛の価格が値上がりし、黒毛和牛の子牛が70万円以上もする今のなっては、
短角牛は、オスとメスがきちんと恋愛して子を宿す。牧野に放たれるメスの集団50頭くらいにつき、「種雄牛」と呼ばれるオスが1頭放たれる。メスが50頭いると、だいたい毎日1頭は発情期を迎える牛がいる。メスが発情すると、フェロモンをまきちらすのだが、オスはそれに敏感に反応し、種を付けるのだ。
・・・秋になって下牧するとき(里に下ろす)、オスの体重は入牧の時から50キロ以上も減っているという。
長く飼えば飼うほど、美味しい肉ができるのだ
去勢されると、オス牛特有の筋骨隆々の体躯に育つことはない。
屠畜したあと、死後硬直が解けてからゆっくりとタンパク質が分解し、うま味成分であるアミノ酸が生成される。
黒毛和牛のサシばかり評価される仕組みだと、あか牛を生産することは叶わなくなってしまう!
土佐あかうしはかわいい
フランスでは未経産の牛の肉は、味も香りもなくて美味しくない、と現地の人は言う
一番美味いのは、お産を2回経験した短角牛だよ
【突破する力 朝日新聞GLOBE】気仙沼ニッティング 御手洗端子
フィッシャーマンズセーターとして、新たな産業を生んだ。
学校で先生に「将来は何ないなりたいのか」と聞かれ、答えられなかった。家に帰って言うと、母親の照子はこう諭した。「何にたりたいかより、どう生きたいかでしょう」
マッキンゼーを選んだのは「大きな仕事をするための力をつけたい。そのために、ビジネスの世界を知った方がいい」という気持ちからだ。
糸井は御手洗を「分からないことをそのままにせず、理解したいという気持ちがすごい」と評する。
「思ったことをはっきり言うので付き合いやすい。現場で一つひとつをよく見て動く。大きな視点で物事を見る。この両方がある」という。「気仙沼だけでなく、たくさんの地方で問題を解決する種を、彼女は持っていると思う」
御手洗はきっぱり答えた。「私が去ってもずっと栄えるようになるまで会社を育てなくてはいけない。会社にとって一番よい判断をするためには、個人の『次』を考えるべきでない」
論壇時評「充実を支持する層は」_小熊英二
福祉の充実が、貧しい人に支持されていない。嘘のようだが本当の話だ。
大沢によれば「日本の税・社会保障制度はOECD諸国の中でも最も累進度低」い。とくに社会保険料は、低所得の人ほど相対的に負担が重い。
純粋に政府からの所得移転だけをみても、日本は一番豊かな上位二〇%のほうが一番貧しい二〇%よりも多く移転されている」。つまり今の制度は、豊かな層の方が得るものが多く、「低所得層は、負担は相対的に重く、受け取るものは相対的に貧弱」だ
その前提は、欧米がそうであるように、低所得層は福祉充実をうたう政党を支持するはずという認識だ。だが西澤は、日本の有権者の意識は「経済学者・政治学者が想定する『前提』とは真逆」だというのだ。