ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

『監督 小津安二郎(蓮實重彦)』

f:id:design_your_life:20160519082537j:plain

 

小津の映画ではキャメラが動かない と

 

小津にあっては、愛情の激しい葛藤が描かれない。物語の展開は起伏にとぼしい。舞台が一定の家庭に限定されたまま、社会的な拡がりを示さない。

 

 

事実、彼は、しばしば変化よりも一貫性を求めた。「豆腐やにトンカツを作れというのは無理だよ」というある批評家に向けての彼自身の弁明が、その結論をさらに強固にしているかに見える。

 

すべての構図は静的であり、すべての会話は単調であり、どの表情もみな穏やかであり、編集はカットだけの直進的なものであり、次にどんなショットがくるか予想できる。

 

また、年齢を重ねるにつれて、小津の嗜好が濃厚で儀式的なものより、むしろ素朴で日常的な味覚に親しみをおぼえるにいたったという点も、確かな事実だろう。

 

 

大学や旧制高校時代の同級生が集まる小料理屋のテーブルには、ウィスキーと日本酒の徳利とが並んでいるし、それにビールの壜までが加わっている。肉を中心とした西洋料理と野菜を中心とした和食とか、たがいに排斥しあうことなく豊かに共存しさえいるのである。小津にあって特徴的なのは、むしろこうした混在現象とも呼ぶべきものにほかならない。にもかかわらず、作中人物の一人が、ヒジキや切り干しや豆腐が食べたくなるといった味覚の変化を口にしたりするのは、自分が娘を結婚させるほどの年齢に達していることを無理にも説得しようとして、世間でよく口にされるきまり文句を鸚鵡がえしにつぶやいているだけのことなのだ。

 

旧師を囲んでのクラス会という主題は『父ありき』にも認められるきわめて小津的な場面を構成しているが、『秋刀魚の味』で特徴的なのは、それが、恩師を思うかつての中学生たちの心情が美しい師弟愛の物語として強調されているわけではないということだ。

 

 

いささか書生っぽい正義感から上役にたてついて職を失った若いサラリーマン

 

敗戦によって、すべての日本人は精神の純血を失った。あるいは娼婦の如きものになった。しかし、たとえ娼婦となっても、野原で弁当を食べる素朴さだけは保持しようではないか。

 

 

人はしばしば、抑制による極度の単純化といった言葉で小津安二郎の特質を語ったつもりになる。

 

 

小津の映画文法に対する無頓着ということが挙げられよう

 

映画人たちから目線の乱れと呼ばれて軽蔑されているごく初歩的な技術ミスに

 

 

問題は、ある一つの特徴で小津を定義しようとする場合、それに矛盾する細部が必ず存在してしまうということだ。

 

 

 

「作品のことを聞いてくださる方はいらっしゃらないのでしょうか」

三島賞受賞会見での、鵜飼さんの悔しさや推し量れるかな