『万延元年のフットボール(大江健三郎)』
1988年初版刊行。
繰り出されるイメージは大江健三郎作品のイメージそのものだ。
石の礫。不条理な事故や怪我。生まれた子に障害がある。
穴にうずくまる僕。異常に太り出した女(ジニ)。森に棲む隠遁社(ギー)。
顔を朱色に塗って縊死した友人..。
この夏の終わりに僕の友人は朱色の塗料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこみ、縊死したのである。
<なんでもいいから、陽気にしていようじゃないか!>
ーおれは自分の肉体がすっかりばらばらになり、すみずみまで、ぐにゃぐにゃになり、どんな感覚もないウィンナ・ソーセージのひとつながりのごときものになってしまった気持をあじわったよ。その反面、精神の方は肉体から完全に切りはなされて、はるかな高みを浮遊しているのさ。
死は不意に理解関係の縦糸を断つ。生き残った者には、絶対につたわらないところのものがある。
もう飲むな、人生はしらふでやってゆかなければだめだ
僕は自分が肉体、精神ともに下降しており、下降の斜面はあきらかに死の匂いのより濃密な場所へとむかっていることを自覚している。
しかし数千羽の鶏にガソリンをかけて焼く無益な労働を通じて、そういう連中の柔らかなできそこないの頭のなかの、ものほしげな甘ったれ根性も、幾らかはタフな憎悪の酢に変わったと俺は信じたいよ。
「蜜、おれが谷間の青年グループを訓練するためにつくるフットボール・チームのために、五万円寄付してくれないか?」
鷹四もまたS兄さん同様、万延元年の事件に影響を受けて行動することを望んでいるようですよ。
僕は根所家の人間の性格のうちで、万延元年の事件から勇壮な暗示を受け取ることを拒む側のタイプの血をうけついでいるんです。
妻の返事ははっきり聞き取れなかったが、僕にはいまや妻があきらかに鷹四の親衛隊に属したことがわかった。
裏庭に今度はただ夜明けにもぐりこむことだけが目的の穴ぼこを掘ろう。アメリカの市民が核戦争用のシェルターを所有しているように、僕は観照用の穴ぼこを一個所有するわけだ
僕はたとえようもなく気が滅入ってくるのを感じた。現在のように外部から自分が自由に解放されているのを感じている時、純粋に自分自身の内部のみに関わって気が滅入ってくるのを感じ、しかもそれがますます昂進するとすれば、そうした自分が、再び夜明けの穴ぼこに臭く熱い犬を抱いて坐りこむ時、僕の指がどのような作業を開始するかはあきらかだ。あの朝、寝室に戻ってからいつまでも克服できなかった震えと痛みの思い出に、あらためて僕は埋めつくされた。新生活、草の家、それはこの谷間で僕を待ち受けているものではなかった。僕はあらためて孤立無援に、希望の兆候はいささかも見出さず、弟の帰国以前よりあきらかに深まった気の滅入る時間を経験しているのである。僕はこの経験の意味のすべてを知っている。
僕は自分と妻との間に癌のように発生している性的な行為の致命的な不可能さの感覚を憂鬱な気分で思い浮かべた。
「...結局それが引き起こした今日の混乱を見ていると、つくづく鷹には、組織的トラブルメイカーの才能があると思ったわ」
「私は鷹と一緒に残るわ、蜜。私が鷹の行動に惹きつけられるのは、生まれてから一度も私が法律に反することを経験したことがなかったからかもしれないの。自分の赤んぼうが獣の仔みたいなものになるのを、見棄てたままでいることまで、私はともかくそれを国家の法律にしたがってやったのだから」と妻はいった。
「あの若者にその兆しがあらわれた以上、万延元年の若者たちと自分たちとの同一化の指向は、すぐさまフットボール・チーム全員に伝播するだろう。おれはそれを谷間の人間全体に広めてやる。おれは百年前の先祖たちの一揆を谷間に呼び戻して、念仏踊りよりももっと現実的に再現したい。蜜、それは不可能じゃない!」
「いったい、どういう有効性のために、きみはそういうことをしたいんだ、鷹?」
「どういう有効性のために? はっは。蜜は、友だちが縊死した時、かれがどういう有効性のために死んだのかと考えたかい? また蜜は、自分がどんな有効性のために生き延びているのか、と考えてみることがあるのかい?谷間に新型式の一揆が達成されても、いかなる有効性もないかもしれない。しかしすくなくともおれは曾祖父さんの弟の精神の運動を、もっとも濃密に実感できるだろうじゃないか、それはおれが永い間熱望してきたことだ」
僕は戦後生まれの少年の理由のない朝鮮人敵視に嫌悪感を誘われた。
鷹が、菜採ちゃんとやるから、おれは向うで寝るのが厭だ
子どもの弟がつまらないムカデに自分の指を攻撃させる現場に僕が立ちあうよう、物欲しげな様子で懇請したと同様に、いま姦通の事実を当の情人の夫に大声で誇ろうとするのに対して、僕は冷淡であることを示そうとした。
「母屋に来てください。鷹が、谷間の女の子を強姦しようとして殺したから。フットボールチームのメムバーはみな、鷹を見棄てて家に帰ったし、明日になれば、谷間中の男たちが、鷹を捕まえにくるよ」
#女 #コミュニティの間でやりとりされる存在 #私刑
あの兄妹は一緒に寝ているというような噂をたてる、したたかな大人もいた。おれはそういう連中の家に、投石して報復した。しかしおれはその噂に逆に暗示を受けてしまってもいたんだ。
ふたりとも他の人間と結婚することはなしに、兄妹でこれをやりながら一生暮らすことができると教えたんだ。
おれと妹とが、将来も反社会的に結束して生きていく決心さえすれば
#白痴の妹 #禁忌 #救済を願う妹 #拒絶
僕は、無関心な他人について批評するたぐいの冷静な観察力を、夫の僕について発揮する妻の言葉に実際落胆しながら、おそらくそのとおりなのだと考えた。