ここがパンチライン!(本とか映画、時々 新聞)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『空気の研究(山本七平)』

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「それは簡単なことでしょう。まず、日本の美徳は差別の道徳である、という現実の説明からすればよいと思います」

 

私は簡単な実例をあげた。それは、三菱重工爆破事件のときの、ある外紙特派員の記事である。それによると、道路に重傷者が倒れていても、人々は黙って傍観している。ただ所々に、人がかたまってかいがいしく介抱していた例もあったが、調べてみると、これが全部その人の属する会社の同僚、いわば「知人」である。ここに、知人・非知人に対する明確な「差別の道徳」をその人は見た。これを一つの道徳律として表現するなら、「人間には知人・非知人の別がある。人が危難に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。非知人なら、それが目に入っても、一切黙殺して、かかわりあいになるな」ということになる。この知人・非知人を集団内・集団外と分けてもよいわけだが、みながそういう規範で動いていることは事実なのだから、それらの批判は批判として、その事実を、まず、事実のままに知らせる必要がある、それをしないなら、それを克服することはできない。私がいうのは、それだけのことだ、と言った。 

 

みなはそうしているし、自分もそうすると思う。ただし、私はそれを絶対言葉にしない。

 日本の道徳は、現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じ手おり、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、”口にしたということが不道徳行為”と見なされる。

 

そして米軍という相手は、昭和十六年以来戦いつづけており、相手の実力も完全に知っていること。いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知・不見識・情報不足による錯誤は考えられないことである。

 

「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。

 

 

人はそれを感ずるから「空気」と表現したに相違ない。従って、この空気に対抗して論争した論説を、その空気が消え去った後で読むと、その人びとが、なぜこんなに一心不乱に反論していたかが、逆にわからなくなってくる。

 

 

一方明示的啓蒙主義は、「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ーーー「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追い込んでしまった。戦艦大和の出撃などは“空気”決定のほんの一例に過ぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて“空気”決定なのである

 

 

周恩来曰く「言必信、行必果」(これすなわち小人なり)

「やると言ったら必ずやるサ、やった以上はどこまでもやるサ」で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の“空気”に支配されて、右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は「言必信、行必果」的小人だということになるであろう。

 

 

だが非常に困ったことに、われわれは、「言必信、行必果」的なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見るのである。

 

われわれの社会は、常に絶対的命題をもつ社会である。「忠君愛国」から「正直者がバカを見ない社会であれ」に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、この絶対性にだれも疑いをもたずそうならない社会は悪いと、戦前も戦後も信じつづけてきた。

 

天皇制」とは何かを短く定義すれば、「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」となろう。天皇制とは空気の支配なのである。

 

 

「あの場の空気では、ああ言わざるを得なかったのだが、あの決定はちょっとネー...」といったことが「飲み屋の空気」で言われることになり、そこで出る結論はまた全く別のものになる。日本における多数決は「議場・飲み屋・二重方式」とでもいうべき「二空気支配方法」をとり、議場の多数決と飲み屋の多数決を合計し、その多数で決定すればおそらく最も正しい多数決ができるのではないかと思う。

 

聖書とアリストテレスで一千年鍛錬するとアングロサクソン型民族ができるといわれるが、

 

少なくとも明治時代までは「水をさす」という方法を、民族の智慧として、われわれは知っていた。

 

日本とはそれで十分な世界であった。そしてこの世界の仮装の西欧化には大きな危険があるのは当然であった。

 

 

 

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『蹴飛ばせ、幕引きパターン(朝日新聞編集委員 高橋純子)』

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毎回楽しみにしている、朝日新聞 高橋純子さんの政治断簡。


切り口、切れ味、横道と脇道、嫌悪と皮肉がないまぜになって政権を批判する。

権力や権威に対する批評性と、その志と高い見識からくる教養を感じる。

朝日新聞にはこういう人がいるから(記事がある)、嫌いになれない。

 

 

「いつまでやってんだ音頭」や「再発防止節」、はたまた新曲「国民栄誉賞だヨおっ母さん」が大音量でかけられ、正当な批判はかき消される。

 

 

空想してみる。国会の議論がもし、手話で行われたら。「私や妻が関係していたら」はどう表されるか。「贈収賄」は「文脈」から読み取れるか。副総理はちゃんと「ごめんなさい」が言えるか。官僚はそれでも上手にウソをつくのだろうか。

 

 

 

この「言葉」が壊れた貧しい世界を、どうすれば蹴飛ばすことができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

『西部邁さんを悼む -絶えず問うた 生への覚悟-(佐伯啓思)』

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佐伯啓思

西部さんが絶えず問いかけたのは生への覚悟であった。お前は何を信条にして生きているのか、それを実践しているのか、という問いかけであった。

 

その意味で、彼ほど、権力や権威や評判におもねることを嫌った人を私は知らない。

 

 

あらゆる社交の場に彼が求めたのは、場をわきまえた礼儀や節度である、公正の感覚であった。決まりきったような党派的意見や個人的な情緒の表出をもっとも嫌っておられた。そしてそれをわきまえぬ者に対する批判の手厳しさは、時として場を凍りつかせることはあっても、正しいのは常に西部さんなのである。

 

 

西部さんは、チェスタントの次の言葉をよく口にしていた。

「一人の良い女性、一人の良い友、ひとつの良い思い出、一冊の良い書物」、それがあれば人生は満足だ、と。

 

 

 

『武器としてのITスキル』

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問題解決において、「Where - Why - How 」の手順を適切に踏むことはコンサルタントやマネジャーの腕の見せ所であり、論理思考力に加えてセンスや経験が求められる箇所。人間の付加価値は課題設定にあり。

 

では、AIが真似できない人間のクリエイティビティとは何なのでしょう。端的にいえば、それは「過去の延長線上にない解」です。

 

 

 

『論壇時評(小熊英二)』

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2018年4月26日「透明な人事へ 審査期間を」(政治と官僚)

自民党が安定していた時代には、政治家は性急な無理強いをせずともゆっくり要求を実現させる「熟柿戦術」をすればよかった。また、官僚たちも、既成を口実に断ったり、「盥回し」にしてやり過ごしていた。だが政権喪失を経験した自民党は、そんな「大人の構え」を失った。

 

「政治主導」を掲げた改革で2014年に内閣人事局ができ、内閣が官庁幹部600人の人事を左右出来るようになった。

 

 


2018年5月31日 「安くておいしい国」の限界(観光客と留学生)

観光客からみれば、日本は「安くておいしい国」になったのだ。

 

「安くておいしい店」は、千客万来で忙しいだろうが、利益や賃金はあまり上がらない。観光客や消費者には天国かもしれないが、労働者にとっては地獄だろう。

「日本には、20代、30代で高度な知識・能力を有する若者が、高賃金で働く職場が少ない。稼げないから、食べ物も安くなるのだろう」

 

それでも留学生が集まるのは、『働ける国』だからだ」。日本では就労ビザのない留学生でも週に28時間まで働ける。だが米国では留学生は就労禁止だ。独仏や豪州、韓国は留学生でも就労して生活費の足しにできるが、日本より時間制限が厳しい。そのため、「日本に来る留学生の層は、おのずと途上国からの『苦学生』が多くなる」という

 

いま日本では年に30万人、週に6千人の人口が減っている。

 

私は、もう「安くておいしい日本」は、やめるべきだと思う。

日本の人々は、良いサービスを安く提供する労働に耐えながら、そのストレスを、安くて良いサービスを消費することで晴らしてきた。そんな生き方は、もう世界から取り残されている。

 

 

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『日本の気配(武田砂鉄)』

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「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」には主語がない。1959年に日本にやってきたチェ・ゲバラは、当初予定していなかった広島訪問を懇願した。原爆病院や資料館を訪ね、同行した日本人に対して「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、どうして怒らないのか」と言い残した。

 

あらかじめ用意されたストーリーに従ってはいまいかと、当たり前の疑いを打ち出してみるべきだろう。

 

パリの南東部にあるリヨン駅は、リヨン方面に向かう始点となる駅。つまり、「そっちへ向かう列車だから」という理由で東京都内に名古屋駅が存在しているような煩わしさがある、という説明は更なる混乱を招くだけかもしれない。

 

政治手法を考えれば「なんだかんだで、大きな声を、支える力」が似合いますよね。

 

 

東北復興から7年経って..

糸井①
「変なことを言うようだけど、この音楽で、8割が復興したという話をされても、2割の悲しみしか伝わってこない。悪いけど、こういう撮り方は、地元の人はやめてくれと言っている。ナレーションにしても、(暗いトーンではなく)普通に言えることがあると思う」


糸井②
「全部をその文脈に入れてしまったら、『ここまで来た』と喜んでいる人たちの表情が見えてこないんじゃないかな」 

 

それに対して、

批評家・若松英輔が同じ日にこのようツイートをしている。何度か繰り返し読んだ。繰り返し読み、どちらかを選ぶべきではないと思いながらも、つい、こちらを信頼した。

「泣いてばかりいないで顔をあげろなどと言う者の言葉を信用してはならない。人は自ら歩く道を舌で舐めるような辛酸のなかに長年探しているものを見出すことがある。悲しみは情愛の泉である。そればかりか、叡智の門である。人生には、悲しみを通じてしか知り得ない幾つかの重大なことがある」

 

世の中で毒舌と称される人のほとんどは、毒を吐いた直後に笑う。

あくまでも仮のものであって、こちらの真意ではないんですよ、そのことをわかってくれよな、という説明。

 

山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)は、とりわけ3・11以降、決定に至るプロセスを曖昧にしたまま、万事を空気で稼働させてきた日本社会を突つく際に、頻繁に持ち出されている文献である。

 

『もらったものだけど、美しく、精神的な支えになってきました』と言えばいい」と言う

 

目の前に汚れているお皿があって、これ、どうするの、と問いかける。この汚れのほとんどが、ボクが使う前からあったものなんだよと言う。それに、これからキレイになるからさ、と言う。そんなことを言いながらテーブルに鎮座している人を私はどうしても信じられないのだが、少なくない人がそれを信じている。

 

以前、重松清と対談した折、重松が唐突に「この安村の言葉には批評性がある」と言いはじめた。

 「いままでは『安心できないぞ』『だまされているかもしれないんだぞ』というのが陰謀論的なアプローチだったんだけど、”なんてこたなかった、はいていた、安心して下さい”っていう裏返しの批評性がある」(『現代用語の基礎知識2016』)

 

メディアの役割とは、権力を監視すること、そして思考の多様性を担保することに違いないが、

 →読売新聞、どっちもねーなあ.. 笑

 

偏屈な視座で切れ味の鋭い笑いを量産してきた松本人志は、自身の番組『ワイドナショー』に安倍首相を呼び、直立不動で出迎えた。その後も、政権の意向に従順な意見を述べ、あらゆる異議申し立てを茶化すようになった。

 

置かれた境遇を集団的ではなく、個別的な対応で乗り越えていた。国家と個人は違う。

→ そう。だから、アンタ個人に戻りなさいよ。ちゃんと一個人としての意見を言えるようになりなさいよ。ねえ大下。

 

一億をまるで一人のように縮め、詰めて、弁当箱の枠の中に入れる全体主義的な考え方は、不思議にも東洋でただ一つ自由民主主義の模範といわれている日本のものなのです」

 

そういった「逃げ腰なのに強気」といった謎めいた言語センス

例::「ご指摘にはあたらない」「記録はない」「印象操作だ」

 

そう長くもない文章の中で、自身の差別感情が漏れてしまっている事に気付けていないのが実に非道で、そして情けない。

 

朝日新聞の「ダウン症児の出生 15年で倍増」の記事が、障害の有無を容易に幸・不幸にリンクさせる、配慮のないテキストだった。報じる側は「これから控える」側の安堵ばかりに乗り、「すでに暮らしている」側への負荷を取り込もうとしてない。明らかに調合を怠っている。

 

人の死に対して、物語を投与してしまう身勝手さを、私たちはすっかり忘れてしまう。

 

でもコミュニケーションって、常に失敗しているのであって、そして、そこから飛躍していくのであって、失敗や飛躍を放置していおくほうが、対する個々の振る舞いに対して寛容でいられると思う。 

 

この国のコミュニケーション能力って、正直、主体性・積極性を持たないことによって最高値に持っていくことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『13の理由 』#12 #13

※自殺テープにデコレートする女の子

 

---#12 テーマは「裁判所からの召喚状」

「やること全てがみんなを落胆させる。私がいない方が、みんなのためになると思った」

 

ブライス。ハンナへも暴行。

 

 

 

※二人が進路相談室で並んで座ってるカット

---#13 テーマは「一縷の望み」

 

『私は理想の子どもではない』



ハンナはこの部屋を出て、先生が出てくるのを待った。

ポーター先生。重責のある、難しい仕事だ。

 

「先生は止められた」

 

「14番目を足しました。正しいことをする手助けになる」

 

 

「つぎはどうなるんだ?」
「わからない。なるようになるよ」
「テープでも聞くか」