「火口のふたり(2019)」
主演、瀧内久美、柄本佑。というかこの二人しか出てない。
名前の売れてる柄本佑の方が、演技と存在感で瀧内久美に文字通り食われてた。
もう、瀧内久美の役が良かったとか裸が良かったみたいなことすっとばして、この役者さんのこと好きになった。素晴らしかった。
男が女の性に魅せられて喰われる、という内容。
同郷で10代から仲の良かった男女が、女の結婚式のために帰省したのをきっかけに、セックスに走るという筋書きだが、安くない。その探求心と没入がまっすぐでまことに人間的で愛おしい。
若い頃に特定の異性とのセックスに狂ったことがある人間にとっては、
なんとも愛しく懐かしい感興のある映画だろう。
「もうけんちゃんの身体からは逃げようと思って」
「いつか別れなくちゃならないと思ってた」
もうさかりのついた猿のように、やりたくなっちゃう潔さ。
「俺セックスがこんなに気持ちいものなんだって、忘れてたよ」だってさ。
ここはほんといいシーンだだと思う。
映画って、人間のこういうところを画に収めるべきなんだとさえ思う。
『直子、中に出してもいい?』
ってのがエンディングのラストワード。最高だよ、これ。
「委縮するメディア(斉加尚代さん・毎日放送ディレクター)」
上映中のドキュメンタリー映画「教育と愛国」で監督を務める毎日放送(MBS)のディレクター。
2010年に大阪維新の会ができて以降、政治主導の教育改革が進みました。その変化が速いなと感じていたところ、国が道徳を教科化することになった。
そして戦後初めて作られた小学校の道徳の教科書で、『パン屋』を『和菓子屋』に書き換える、ということが起きました。
12年に大阪府立高校の卒業式で教職員が国歌斉唱しているか口元チェックをされたことがあり、当時の橋本大阪市長へ会見で『一律に歌わせるのはどうが』と尋ねました。当然の質問をしたつもりでしたが、約30分にわたる言い合いになってしまいました
昨年、私は局内全員メールを送り、良心に基づく『個』の視点を持つのが大事だ、と書きました。
―メディアは委縮してしまったのでしょうか。
「委縮しそうな状況が生まれたら、逆にはね返さなきゃいけない。それがメディアの役割です」
政治家が『表現の自由』を言い出した時点で、私は世の中がおかしくなったと思いました。表現の自由が必要なのは、意見をたたかれたり黙らされたりする人たちです。なのに政治やSNSを前に、今はメディが自ら縮こまっています。
「私をくいとめて(2020・のん)」
2020年10月。綿矢りさ原作、大九明子監督、主演にのん(能年玲奈)、林遣都、臼田あさみ。
自分の中の「A」と対話しながらつつましく一人暮らしする、みつ子。
「A」の声は中村倫也なので、Aとの会話は自分の中での脳内会話なのに、一人暮らしをする女性と、その女性以上に自らを理解している風なイケメン声(中村倫也)との会話は、映画を見ている側にはまた別の叙情を生む。彼女は一人だけど楽しそう。でも他人から見たらちょっと”イッちゃってる人”。
そう、部屋の中で、一人の休日、いわゆるおひとりさまライフを過ごしている間、あたかも別人格との対話しているように物語が進むのだ。
これは、小説の中での作用(と効果)とも違う、映画ならではの仕掛けですよね。
原作である小説とはまた違った感興がある。
淡々と、生活の中でのひとりごちや吐露を展開しているうちに、
苦い記憶や頭の片隅に追いやっていた黒い情念や憎しみの言葉が出てくるシーンにはドキリとする。しかもそれを、のん が吐くのだ。そのギャップ恐ろし面白し。
「あの先輩すごいね!わたしのクソ芝居見抜いてたってことだもんね!」
「大丈夫?って聞いてくれるのぞみさんがいてくれたから、息ができた」
会社の先輩で、唯一心を許せる話し相手・のぞみさん(臼田あさみ)との会話は楽しい。女の子同士のこんな会話覗き見るのは楽しいし、ホッとする。
「なんかこれワインの気がしてきた。効く〜」
「タピオカミルクティーですよ」
「バレンタインに東京タワーの階段を登るイベントあるの知ってる?」
「知りません。なんですかそのクソイベント」
会社によく来る取引先の営業で年下の男の子(林遣都)といい感じになった時(その一方で不安と恐怖に陥った時)。ホテルのフロアにある製氷機に氷を取りに行った廊下の片隅での壮絶な演技なんかは、まるで舞台観に行って最前列でのんの演技みせれてるくらい惹きつけれて、見応えあった。
「一人で孤独に耐えてる頃の方がよっぽど楽だったー!」
わたしこのまま一人でとめどなくしゃべり続けて、一人で死んでいくんだ!
「誰かわたしをくいとめてー!!!」
綿谷原作の大九作品、とても良かった。
またこのタッグ映画を観たくなった。
「資本主義 日本の落日(諸富徹・京都大学大学院経済学研究所教授)
いつの時代も、この島国自国の経済圏のみに安住して、変化してこれなかったのは政治や人間的規範だけでなく、経済財界も同じだ。日本は既に、世界で起きているパラダイムシフトに気づけない、気づいても身動きが取れなくなり、脱炭素環境技術でも世界から遅れてしまったようだ。ゆで蛙になる国の、沈んでいく渦中はゆるやかに残酷。
2022年5月17日付、朝日新聞オピニオン面。
「二酸化炭素(CO2)を1単位排出するごとに、経済成長の指標となる国内総生産(GDP)をどれだけ生み出したのかを示す『炭素生産性』をみると、日本は先進国で最低水準です」
2000年代に入っていくと様相が一変します。欧州は再生可能エネルギーに真剣になったのに、日本は不安定でコストだと軽視し続けました。いずれは新しい産業になり、コストも下がるとの主張にも、政財界の『真ん中』の人たちは聞く耳を持ちませんでした』
ー資本主義や経済成長をあきらめない限り、地球の危機は避けられない、といった考え方も支持を集めています。
「みんなで助け合えるコミュニティーを作り、つつましく生活をすればエネルギー消費を減らせるし、より公平な社会にもなるという議論ですね〜」
「しかし、現代文明がもたらした気候危機は、そうした考え方への賛同の広がりで対応できる段階を、すでに超えています。再エネ転換には技術革新が欠かせませんが、成長がなければ新技術に投資する原資も生み出せませんし、停滞した社会では格差も固定化されます。資本主義の中でシステムを改革する道を模索すべきです」
「リベラル派が陥る独善(政治学者・岡田憲治)」2021年9月9日付朝日新聞
似非保守セクトが長らく政権運営をしているこの国では、リベラル派は不正を糾弾し、怒り、反対するシーンばかり演出させられて、常に劣勢を強いられている。
そんな政治環境のなかで、リベラル派や野党はどう闘っていくべきか。本記事では、その点で重要な視点を提示している。
―前回衆院選で、自民・公明両党の得票集計は選挙区も比例区も50%に届かず、野党候補が競合した220余りの選挙区のうち、その得票計が与党候補を上回った選挙区は60以上ありました。
「つまり、小学生にもわかる必勝法があるのに、ゲームの仕組みを無視してバラバラに戦い、与党候補に議席をプレゼントしてきたわけです。」
「過半数を取れないまでも、伯仲国会を実現できれば、常任委員会の委員長ポストをかなり獲得できます。審議拒否により定足数を不足させ委員会を開かせないという戦術も使えますが、いまは交渉すらできない。
「リベラル野党が『上顧客』と考えている一部のラジカルなフェミニストを忖度してのことでしょうが、新たに開拓すべき潜在的顧客を失うことになると思います」
ーもっと現実的な政策を打ち出すべきだ、ということですか。
「訴える政策の順番付けが間違っているということです。ジェンダー平等や性的少数者の権利、原発、動物愛護はもちろん大切ですよ。でもそれが響く人は、最初から野党に投票しています。いま政治が示すべきは、当然ながら、人々の生活を守るという強い意志です。いまや日本は年収300万円以下の給与所得者が4割を占め、非正規雇用の労働者も4割に及んでいる。特に女性若年層の貧困は、報知を許さないレベルです」
ーですが、「顧客」を見誤っているという点は保守も同じでは。
「リベラルも保守も、極端な固定客をつなぎ留めようとしている。その結果、中庸な人々の政治的期待は行き場を失っています」
「再びマルクスに学ぶ(斎藤幸平)」2019年10月30日 朝日新聞
ーそこに注目が集まらないのは、極端な主張だからでは?
「極端ではありません。国連の昨年の報告書でさえ、経済成長だけを求めるモデルは持続可能性がない、として脱成長モデルを検討するようになっています。
上の世代が戸惑うほどグレタさんが絶大な支持を受けた背景には、いまのシステムではだめだという危機感が直感的なものも含めて若者たちに広がっていることがあります。
ーとはいえ、日本は経済成長すらあまりしていません。それでももっと再分配、ですか。
問題は富が『足りない』ことではないのです。十分に生み出されているのに、一部の人が独占していることです。世界全体の富を独占する一部のお金持ちには、もっと課税して分配すればいい。
「日本には、『政治主義』とでも言える強固な考え方が根付いているためではないでしょうか。選挙を通じてしか、社会は変えられない、と。ただ、社会運動によって、政治や経済を変えることもまた民主主義なのです」
『仕事。(川村元気)』
川村元気氏のその道の熟達者へのインタビュー本。
若くして有名になると、出版社にこういう企画が組まれるんだよな。
川村元気 だから、撮れなくなる監督は、仮説ですけど、どかかで撮らない理由を見つけてしまったのかなと思います。
神棚に上がってしまったほうがラクで、つくり続けるってことは一方で「昔のようがよかった」といわれるリスクもはらんでいますよね。
倉本聰 ただ、本当に書きたいものだからこそ、ストレートに伝えるんじゃなくて、ゲリラ的に出さないといけないとも思いました。具体的には、”糖衣錠”という方法を思いついたんです。ーーー要するに本当に書きたい核の部分は苦いんだけど、外の部分だけ甘く見せることで、後でじわじわきいてくるという。
倉本 あのシーンは、初めは純が告白するだけで終わってたんですよ。ところが、どうも自分の中で”チック”がないという気がして、最後の最後でつけ足したのが、正吉を見送った後、ラーメン屋に入った五郎たちを店員の伊佐山ひろ子が「早く食べて帰って」と執拗に催促する部分なんです。
ーー突発的に出てしまう人間のくせ、つまり人間のこだわりみたいなものですね。
映画を書くときはドラマの筋立ての大きなうねりが大事ですが、テレビではチックでうねらせることを必死に考えていて、それを書くことだけは若い頃から意識して専念してきた気もします。
倉本 本筋とは関係なくても、結局その人間が見えるシーンというのを、観ている人は覚えているものだと思うんです。飯を食べたり酒を飲みながら、ぱっとひらめいて箸袋の裏に書き留めたりということをよくしますね。
秋元康 映画にしても、監督や脚本家やプロデューサーなんかが、そのために映画をつくったっていうワンシーンがないといけないと思うんだよね。
美輪明宏さんの若い頃、
「江戸川先生が『君を切ったら何色の血が出るんだろうね』っておっしゃったので、私は『七色の血でございますよ』と答えました」って。江戸川先生って江戸川乱歩ですか、みたいな。
宮崎駿 一応オーディションをやったんですが、アテレコになれすぎて声に日常性を失っている人ばかりで「だめだこりゃ」って。そこで、僕の知っている範囲でいちばん正直にしゃべっているのはあいつだなと。ほとんど同時にプロデューサーの鈴木敏夫さんんと「庵野だ!」ってことになって、本人に声をかけたら、ひょいひょいと乗ってきたんですね。
宮崎 庵野に「僕はもう『ナウシカ』をやらないからやっていいよ」と言ったのは、あの頃描いたような思いを込めて『ナウシカ』を描くことは、今の僕にはもうできないからです。
坂本龍一 勉強するってことは過去を知ることで、過去の真似をしないため、自分の独自なものをつくりたいから勉強するんですよ。
糸井重里 あるいは「インターネットは終わりだ」という人に、だったら何か策があるのかと聞いても、「いけね、何も考えてなかった」みたいなことが多いように思います。つまり、ネット上の世間は全員学生なのか?って話です。何をして飯を食ってるのか見えない人が、世界のことばかり言ってませんか?
やっぱり出てきた糸井重里。
糸井重里に時代の空気を察知する炭坑のカナリアのような鋭敏な感覚があることは彼の実績からも認めるし、彼の美点だとも思うが、その一方で、体制や権力に文句を言っても仕方ないじゃないか」という姿勢には幻滅させられてきた。
これはあらゆる共同幻想(戦後思想)から脱せよ。核兵器というものについても「手を付けた以上、後戻りはできないんだ(元には戻せないんだ)」と言い放ってきた吉本隆明のスタンスに近い。
昨今の彼の「心地よい」とか、「気持ちが良い」みたいな彼にとって居心地のいい話ではなく、居心地が悪くて、ムカついている話を聞きたい。
鋭敏な彼から出てくるものが、異様に気になるからだ。
「新プロパガンダ論(辻田真佐憲・西田亮介:ゲンロン叢書)」
ゲンロンで対話された”プロパガンダ”に関する論考のまとめ書き書籍。
主に、政権与党や政党、政治的権力が、有権者に働きかける広報・PRに関わる論考。
東京新聞記者の望月衣塑子さんが「おもしろい!」と感想して、ゲンロンイベントにも参加していたのでポチッてしまった。
二人とも30代後半の、近現代史研究家、社会学の専門家である。
通読して、若い世代の論考なんだなと思った。
学究ではなく市井に生きる我々にとって、地続きのリアリティと平易で理解しやすい次元の概念を用いて語られているが、テーマに沿った事例やエピソードの提出が主で、かつての宮台真司や東浩紀が入ったときの論の深まりや知的拡張性に乏しい。パンチラインとして、ラインマーカーで線引く箇所も少なった。
まだまだこれからの専門家たちといった印象。
であるならば、曖昧にならざるをえない総合知を絶え間なくバージョンアップしていくことではないか。かつてそれは、大量に存在していた総合雑誌などの座談会で、専門家と評論家がお互いを信頼し、尊敬しながら、自由闊達に言葉を交わすことで実現されていた。
近年の事例では、ミュージシャンのゆずが「ポップミュージックに乗せればなんでも表現できる」と言ったことと似ています。
『音楽と人』という雑誌で、愛国ソングとして話題になっった「ガイコクジンノトモダチ」について語られていた件ですね。その曲を聞くと、外国人の友達ができ、彼らから「わたしは日本が好きだけど、あなたは日本のどこが好きなの?」と聞かれて、国民意識に目覚めるという内容です。そこから突然、国家や国旗、靖国神社の桜の話になり、このグループはオリンピックの仕事がしたいのかと勘ぐりたくなるような内容になっていきます。
政治家はよく、握手した人しか投票してくれない、という話をします。
近年、大学院の重点化によって、研究者が増加し、研究領域があまりにも細分化しているように思います。そのことによる成果はあるものの、重箱の隅を突くような、オタク的な間違い探しもはびこっています。
吉本興業は近年の闇営業問題で明らかになったように、ほとんどガバナンスが機能していない会社です。近年、教育や町づくりといった公益性の高い領域に進出していますが、基本的なガバナンスの仕組みもない。
確信犯的に問題のフレームアップ(でっちあげ)をはかったのではないか
辻田 わたしは平時であっても、成熟した議論ができる環境が整わないかぎり、改憲は支持できない立場です。
西田 市民が自己決定し、かつそのことを尊重できる政治文化が前提にならなくてはいけません。そのうえで、自己決定と自己責任を区別し、自己決定を尊重しつつ自己責任に陥らないパターなりスティックな政策を採用できる政府も必要でしょう。この療法が揃っていなければ、憲法改正の議論はできないと思います。
あるいは、国会の質疑や記者会見でも、安倍首相は応答の際にひたすら同じことを繰り返す戦術を取ってきました。こういった姿勢に見られるのは、安倍政権が自分たちを支持する四割を固めることに全力を注ぎ、それ以外の国民の意見に応えようとしてこなかったということです。
言葉尻とらえ隊「分からない」(能町みね子:2021年5月6日号 週刊文春)
週刊文春を購読する理由の一つ。
能町みね子さんの、最近ひっかかった「言葉」に関するコラム。
ときに芸能人や著名人の、ときに政治家や為政者の、
無思慮で、空虚で、作為的で、権謀術数的な言葉の意図と効果。
いま一番、批評性があるコラムだと思う。
丸川珠代といえば19年の参院選で、タピオカ容器の不統一などについて
「これこそ政治が解決すべき点」と主張したので(ツイッターに書いた唯一の公約がタピオカ政策)、それ以来私は彼女をタピオカ担当大臣・丸川タピ代と呼んでいます。
冒頭の数行でキッチリつかみ、淡々とした文体で最大笑わせてくれる。
稀有な問題提起と筆致である笑。
わたしも、参院選東京選挙区で丸川タピ代がトップ当選してきた結果など、ただ名前が知られているに過ぎない愚衆投票結果でしかないと思っている。
こういう瑣末なエピソードこそが、その人間が政治家としてどうなのかを考える重要なきっかけであると痛切に思っている。
そう、政治家にとってはどんなテーマであっても、言葉は全てなのだ。
4月23日、IOCバッハ会長が、緊急事態宣言は五輪開催に関係がないと言い切ったことについて、
タピ代氏曰く、「報道では存じているが、直接話していないので分からない」。さらに、緊急事態宣言が及ぼす影響について聞かれても「今のところ答えることは難しい」。担当大臣なので、何も分からないんだ・・・と呆れながら、私はふと「タピ代って、『聞いてない』『分からない』『答えられない』みたいなことばかり言ってない?」と思い調べてみました。
タピ代、何もかも、分からなすぎなのでは?都合が悪いからはぐらかしているという狡猾さすら見えず、本当に何も知らない人がボケッと突っ立ってる感じを受ける。しかも、文脈的には「聞いてないから分からない」ばかり。そんなこと堂々と言うなよ、聞けよ、情報収集せえよ。知らされていない状況、何の解釈もできていないあ状況はマズいって自覚してよ。担当大臣なんでしょ?
ほんとにその通りだと思う。
この人は、何も知らされてないんだと思う。
その辺の普通のおばちゃんと何も変わらない。
偉そうに、私は大臣なんだぞという尊大な風情と態度だけを真似て即興して雰囲気を作る。もっと、この年齢年代の女性ならではの問題意識で、社会的な課題に取り組める、エネルギーのある女性がこのポストにいたらどれだけ有意義だったんだろうな、と残念しかない。そう、現政権の大臣ポストは、無能を通り越して残念な人ばかりだ。
「見直されるアナキズム」(2021年2月1日 朝日新聞)
こういうものをテーマに一個面割かれるのは、やはり朝日新聞の美徳でもある。
「自分を縛り付けるものに、『ふざけんな』と小さく蜂起すること。いや自分も相手を服従させたいだけじゃないか、と自問すること」。これが政治学者の栗原康さんが考えるアナキズムだ。
あらゆる権力を否定するアナキズムは非現実的と揶揄されてきた。
近年は人類学者らの発言もあり、国家の生まれる前から人間が助け合ってきた歴史に焦点が当たる。アナキズムは青い鳥ではない。その実践は既にあったし、今ここにある」と。
一方、『アナーキズム』の著者、浅羽通明さんは「コロナ対策一つとっても、支援金など政府を頼らざるを得ないのが国民の大多数。そんないま、相互扶助の復権がどこまで説得力を持つのか疑問だ」
高校時代、大杉栄の反逆精神にしびれました。
今はクロポトキンの相互扶助論の方に、切実さを感じます。(ブレイディみかこ)
自我追求をわがままとする風潮に、社会と個人は対立しない、「私」を貫くことが連帯と利他につながると考えたE・ゴールドマン。
今こそ、かみしめたい言葉だと思います。
美は乱調にあり。