ここがパンチライン!(本とか映画、時々 新聞)

いま、物語で大事なのはあらすじではない。そこで語られている言葉とリアリティだっ!!ということで、卑怯で弱い人間を愛したい。人間の野蛮さ、愚劣さから目を背けたりしたくない。おのれ自身の端緒(根っこ)が絶えず更新されてゆくそんな経験をする、そのための記録。大江健三郎と吉田修一と。三島と太宰と。村上春樹と中村文則、小島信夫と舞城王太郎。カズオイシグロにミシェル・ウェルベック。カーヴァーとチャンドラー、ブコウスキーにキューブリック。コッポラにデビット・フィンチャー。ウディ・アレンもケヴィンスペイシーも。談志だって

『チェ 28歳の革命』

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キューバ行く前にちょっと。帰ってきて残りを観た。

 

デルトロ似てる。カッコいい。

キューバ旅行の写真を添えて。

 

 

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フィデルゼネストも否定してない

 

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コマンダンテ(司令官)!

エルネストとカミーロ・シエンフエゴス。

 

 

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「歴史が無実を証明する」

 

 

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・革命軍の女性兵ナタリア ボリバル

 

 

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サンタクララ市民が自由のために闘うときがあるとすれば、それはいまだ」 

 

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・モンカダ兵営への襲撃

 

 

 

 

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『パルプフィクション』

 

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俺のタランティーノ人生はこの映画からはじまった。。

タランティーノ作品で一番好きだな〜

 

 

体中がペニスの先になったような気分よ

 

 

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ヤクやってボスの女と会うビンセント 

 

 

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123で心臓に注射器ぶっ刺すシーン、サイコー。

 

 

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ブッチの女役(ファビアン)がすげく可愛い。チャーミング

 

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すっげードタバタ話(ドンパチ殺したり、オカマのポリスにカマ掘られたり、ファミレス強盗助けたり...)

 

 

「大丈夫か?」

「大丈夫なわけねえ」

 

 

「わめくなハニーバニー」

 

 

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ジュールス「だが努力してる。羊飼いになろうと一生懸命努力してる」

 

文芸時評:磯崎憲一郎(朝日新聞 5/30、6/27)

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文体とは何か

「うつくしい文章とか気の利いた表現といったことではなく、日本語の並べ方そのもの

 

登場人物の人生観を端的に言い表す台詞でもなく、ただひたすらに、目の前の一文の、語の選択と配置、という問題なのだ。

 

作中の所々で、書き手の意図を超えて一つの言葉が次の言葉を生む、小説の自己生成が起こっているようにも感じる

 

 

 

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かつては少ないながらも海外小説や文庫の古典が並べられていた売り場を、売上ランキング上位の小説とダイエット本と付録付き女性誌に明け渡してしまった結果、街の書店の地位はコンビニとネット通販と情報サイトに取って代わられた、というのが本当の所ではないか?つまり「文化拠点」が衰退しているのではなく、「文化拠点」である事を自ら放棄した必然として、書店は減少の一途を辿っているように見えて仕方がない。

 

寄稿:『理解できぬ世界は悪か(角田光代)』

会社サボって、「万引き家族」観れてよかった。

朝日で2回(6/8、6/25)、読売で1回(6/7)、大きく紙面を割かれた。

各記事を並べたいと思う。

 

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幼児を虐待する親は極悪人だと思っているし、万引き常習犯は病んでいるのだろうと思っている。自分が彼らと同じ人間だと思うことは怖い。だから線引きせずにはいられない。 

 

よく理解できないこと、理解したくないことに線引きをしカテゴライズするということは、ときに、ものごとを一面化させる。その一面の裏に、側面に、奥に何があるのか、考えることを放棄させる。善だけでできている善人はおらず、悪だけを抱えた悪人もいないということを、忘れさせる。善い人が起こした「理解できない」事件があれば、私たちは「ほら悪いやつだった」と糾弾できる。

 

 

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是枝監督は以前から、現代のメディアが陥りがちな「分かりやすさ至上主義」に警鐘を鳴らしていた。彼の映画も、説明しすぎないことが特徴になっている。

だって、世の中って分かりやすくないよね。分かりやすく語ることが重要ではない。むしと、一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えていかねばならない。僕はそう思っています

 

 

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あたし楽しかったからさ、こんなんじゃお釣りがくるくらいだよ。

あんたマエがあるんだから、5年じゃきかないよ。(作中より)

 

父ちゃんさ、おじさんに戻るよ。

 (作中より)

 

 

『道徳どう教えれば(2018年6月26日付 朝日新聞)』

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そこで私の授業では、教科書にあるお話を結末まで読まず、子どもたち自身に結末を考えてもらう「中断読み」という手法を実践しています。

 

ところが、初めから結末を読むとどうなるか。子どもは教科書の結論が絶対正しいと考えがちで、教員から意見を求められても、「教科書に合わせた答えを言わなくては」と忖度してしまう。(宮沢弘道さん)

 

公教育で大切なことは、すべての子どもたちが自由に、生きたいように生きられる力を育むことです。そのためには、互いの自由もまた認め合う必要がある。哲学ではこれを「自由の相互承認」と言います。どのようなモラルを持っていても、それが他人の自由を侵害していない限りは認め合う。このルール感覚こそ学校で育むべきです。

 

ところが道徳の学習指導要領では、ルールは「守ること」になっています。

日本では、「ルールは与えられ、条件に従うもの」と考える人が多いですが、本来は多様なモラルを持っている人たちが、互いに自由に生きられるために作り合うものです。(苫野一徳氏)

 

 

 

『古典百名山 ジャン=ポール・サルトル』

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サルトルは、「神の不在」を率直に全面的に引き受けた最初の(西洋の)思想家だったからではないか。彼は、「王様は裸だ」と叫んだ少年だ。〜〜〜。しかし、サルトルは「神はいない」と叫び、そこから出発した。

 

 するとどうなるか。人間には、神から与えられた目的も意味もない。だから人間は自由だ。いや自由であるほかない(「自由の刑に処せられている」)。ここから、『存在と無』の最も重要な命題、対自在性(意識をもった存在、つまり人間)は「それがあるところのものではなく、あらぬところのものである」が出てくる。

 

 私は定まった意味や同一性もなくまず存在しており、自由な選択を通じて、未だあらぬ何者かになるほかない。「実存は本質に先立つ」(『実存主義とは何か』)も同義である。

 

 アンガジュマン(政治参加)という考えもここから導かれる。私たちは皆状況に巻き込まれているわけだが、それは、「状況を受け入れた」ということをも含めて、私たちの自由な選択の所産である。とすれば私たちは状況に責任があり、それに積極的に関与することができるし、すべきだ。

 

『中国 儒学思想を政治に(中国人民大学教授 康暁光)』

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2018年6月20日付け 朝日新聞

「彼らは米国映画を好み、米国人のような服装を来ていますが、深層の考え方はたいへん儒学的で、個人主義的な傾向はあまり見られないのです」 

 

「ある調査で『個人は独立した主体。誰も他人の道具、手段になってはならない』、『社会は調和させる必要がある。家庭、社会抜きに個人は存立しない』のどちらを選ぶか聞くと、大半は後者でした。中国社会は儒学的なのです」

 のどちらかを選ぶか聞くと、大変は後者でした。中国社会は儒学的なのです。

 

例えば、車で人をひいてしまったとする。その人を救助して、すぐに病院に連れて行き、相手の家を慰問する。よく話し合って問題を解決する。これがかつての当たり前の姿です。今は違う。事故が起きれば保険か裁判で解決。自分自身は何もしない。自らの良心に従って行動することがない

 

儒学は公共領域の思想です。国家の政治を論じたもので、私人としての生き方を論じたものではありません。〜〜〜。だから、儒学に基づき、多くの人々が公共生活にかかわるべきなのです。