『アンナ・カレーニナ 下 (トルストイ)』
ドリイは反駁しなかった。彼女は急に、自分がアンナとはもうあまりに遠く離れてしまったのを直感し、ふたりのあいだにはもうけっして意見の一致することのない、したがって口に出さないほうがいいような疑問が立ちはだかっているのを感じたのであった。
子供が病気だというのに、あれは自分で出かけて来ようとしたのだ。娘は病気だというのに、この敵意を含んだ調子!
<<あの目つきは、愛情が冷めだしているなによりの証拠だわ>>
そしてアンナは、愛情が冷めだしていると確信したものの、どうすることもできなかった。いや、どんな点でも、彼に対する自分の態度を変えることはできなかった。相変わらず今までどおりに、ただ自分の愛情と魅力で彼をつなぎとめておくことしかできなかった。
彼はその服が自分を迎えるためにわざわざ着替えたものだということを承知していた。
それらはなにもかも彼の気に入ったが、それにしても、もう幾度それが繰り返されたことであろう!と、アンナがあれほど恐れていた、きびしい、石のような表情が、彼の顔に凍てついていた。
例の手紙が与えたいやな印象をぬぐいとりたくなった。そこで、アンナはこういった。
「ねえ、ほんとのことをおっしゃって。あの手紙を受け取られたときはいやな気がなさったでしょう、きっと、ほんとになさらなかったでしょう?」
「 もしそうなら」アンナは、急にがらりと変わった声でいった。「あなたはこの生活を重荷に感じてらっしゃるんですのね・・・だって、あなたはちょっと一日だけ帰って来て、すぐまたお出かけになるんですもの、まるで世間の人たちと同じように・・・」
「アンナ、そのいい方はあんなりだよ。ぼくはおまえのために、一生をささげる覚悟でいるというのに・・・」
しかし、アンナは彼の言葉に耳を貸さなかった。
「あなたがモスクワへいらっしゃるのなら、あたしもごいっしょします。あたしはここで留守居なんかしていませんわ。あたしたちはいっそ別れてしまうか、それとも、いつもいっしょに暮すかですわ」
「いや、それだけがぼくの望みだってことは、おまえも知ってるじゃないか。しかし、そのためには・・・」
「離婚が必要なんでしょう?あたし、あの人に手紙を書きますわ。もうこんなふうに暮らしてはいけないってことが、あたしにもわかったんですの・・・でも、モスクワへはごいっしょにまいりますわ」
「まるでぼくをおどかしてるみたいじゃないか。いや、とにかく、おまえと別れていたくないってことは、ぼくがいちばん望んでいることだからね」ヴロンスキーは微笑を浮かべながらいった。
しかし、彼がこの優しい言葉を口にしたとき、そのまなざしにひらめいたのは、単なる冷ややかさ以上の、追い回されて残忍な気持ちをいだいた人の憎悪に満ちた表情であった。
アンナはこのまなざしを見て、その意味をまちがいなく悟った。
<<もしそんなことになったら、それこそ不幸だ!>>彼のまなざしは語っていた。それは束の間の印象であったが、アンナはもうけっしてそれを忘れなかった。
そして、近頃では、くずして使う紙幣は、もうとっくにそんな思いを呼び起こすこともなく、小鳥のように、どんどん飛んで行ってしまうのだった。金を手に入れるために費やされた労力が、その金で購入されるものの与えてくれる満足に相当するかどうかーーそんな考慮はもうとっくの昔に失われてしまった。
それは結局、ロシアの労働者は他の国民とはぜんぜん異なった土地観念をもっているという点であった。
「〜 今はまるっきりその反対で、両親は物置き部屋にいて、子供たちが二階のいちばんいい部屋を占領している、近頃はまったく両親が自分の生活を投げ出して、なにもかも子供たちのためにささげなくちゃ、という風潮だね、ですって」
酔っぱらってから、かつて妻が恋していた男と、わけのわからない親友関係を結び、堕落した女としかいいようのない女を訪問したりして、いっそうわけのわからない行動をしてから、その女に心をひかれて、妻を悲しませたーーそういう状況のもとで、自分が安らかに眠ることができようとは、まったく思いもよらぬことであったが、しかし、披露と、不眠の一夜と、飲んだ酒のおかげで、彼はぐっすりと、安らかな眠りにつくことできたのであった。
「もう一度頼むから、ぼくが尊敬している母について、そんなひどい口の聞き方はしないでおくれ」彼は声を高めて、アンナをきびしくにらみつけながらいった。
(「結局分かりあえっこないけど、それに意味を与えて生きて行くことはできる!」みたいなリョーヴィンの心象で、この壮大なロシア巨編は閉じられる)
これから今の相手と離婚して別の相手と一緒になろうとしている全ての男女に贈る名作!