『アンナ・カレーニナ 中 (トルストイ)』
(中巻では、リョーヴィンの農業否、労働を基にした人生哲学の開陳を、アンナは夫との離別、およびこの恋が本当の愛なのかの猜疑と葛藤を、カレーニンは不得意な感情生活と向き合い、次第に冷めていく妻への愛を語り。この選択は正しかったのか、私を彼を幸せにするものは何なのか、不幸にしているのではないか、自問を続ける。)
リョーヴィンは自然の美しさをみずから語るのも、人から聞かされるのも、好まなかった。彼にいわせると、言葉などというものは、自分がこの目で見たものから美しさを剥ぎ取るばかりであった。
ところが、リョーヴィンは自分でも認めている欠点、つまり、万人の福祉に対する自分の無関心を弁明したかったので、なおも言葉をつづけた。
「僕が考えるにはですね」リョーヴィンはいった。「たとえそれがどんな活動であっても、個人的な利害に基づいていなければ、強固なものにはなりえませんよ。」
リョーヴィンが部屋を出て行ったとき、ドリイにとってきょう一日の幸福と、子供たちを誇りに思う気持ちを、いっぺんに破壊させるような出来事がとつぜん起こったのである。それはグリーシャとターニャが鞠を奪いあって、けんかしたことであった。ドリイが子供部屋の叫び声を聞きつけて、駆け出して行ってみると、ふたりは恐ろしい形相をしていた。ターニャはグリーシャの髪の毛をつかんでいたし、グリーシャは顔がひんまがってしまうほどかんかんになりながら、所かまわず拳固でターニャをなぐりつけていた。その光景を見たとき、ドリイの胸の中では、なにかが一時に引き裂かれたような気がした。彼女の生活に、さながら闇がおおいかぶさってきたような感じであった。
今日まで自分の生きてきたあの重苦しい、無為な、個人的で不自然な生活を、こうした労働に満ちた、清らかな、万人にとってすばらしい生活に変えることも、自分ひとりの意志にかかっているのだ、と。
そのため、ヴロンスキーはけっしてその範囲から踏み出すことなく、しなければならぬことを実行するのに、かつて一分たりとも躊躇したことはなかった。これらの規範は一点の疑念もなく、次のことを規定していた。すなわち、トランプのいかさま師には負けた金を払わなければならないが、仕立屋には払う必要がない。男にはうそをついてはいけないが、女ならばかまわない。どんな人も欺いてはいけないが、相手の女の夫だけはこの限りではない。侮辱を許すことはできないが、他人を侮辱するのはかまわない、などなどである。
馬車の窓に見えるものすべてのもの、このひんやりと清澄な空気につつまれ、日没の青白い光を受けたすべてのものが、彼自身と同じように、さわやかで、楽しげで、力強く見えた。落日の光線に輝いている家々の屋根も、塀や建物の角のはっきりとした輪郭も、まれに行き会う人や馬車の姿も、草木のじっと動かぬ緑も、きちんと畦をきってあるじゃがいも畑も、家や、木や、薮や、じゃがいも畑の畦の投げている斜めの影も、なにもかもすべてのものが、たった今描き終わって、ニスを塗られたばかりの、すばらしい風景画のように美しかった。
小さなテーブルのそばに腰をかけ、その上に肘をつき、ぼんやりと目の前を見つめていた。アンナは相手が自分を見るよりさきに彼を見た。そしてすぐ、彼が自分のことを考えているのを悟った。
スヴィヤジュスキーはこの地主の泣き言に対して、徹底的に反撃を加えうる答えを心得ていながら、自分の立場として、それをすることができないので、多少の興味を感じながら、地主のこっけいな話を聞いているのであった。
彼は、花の美しさにひかれて、ついそれを摘み取って台無しにしてしまった人が、いまやかつての美しさを見出しかねて、しぼんでしまった花を茫然とながめているような思いで、彼女をながめていた。
ふたりのあいだでは、嫉妬のことを悪魔と呼ぶことにしていたのである。
そうはいうものの、彼の幸福はあまりに大きかったので、この告白も彼のそうした気持ちにひびを入れるどころか、かえって新しいニュアンスを加えたばかりであった。
三晩も眠らず夜を過ごして、我が家へ帰ったヴロンスキーは、着替えもせずに、両手を組み合わせて、その上に頭をのせ、長いいすにうつ伏せになった。頭が重かった。まったく奇怪な想像や追憶や想念が、異常な速度と鮮明さで、入れ替わり立ちかわり浮かんできた。
キチイは家政という仕事に、否応なくひかれていった。彼女は本能的に、春が近づくのを感じながら、それと同時に、不幸や災厄の日があることも知っていたので、不相応に、巣ごしらえに努め、巣ごしらえをすると同時に、そのこしらえ方も覚えようと一生懸命であった。
もう一つの幻滅と魅力は、いさかいだった。
「キチイ!そう腹を立てないでおくれ。しかしね、考えてもごらん、これはまったく重大なことなんだよ。それなのに、おまえはひとりで残りたくないという女々しい気持ちと、ごっちゃにしているんだから。いや、そう思うと、ぼくはたまらないよ。ねえ、ひとりでいるのがさびしいと思った、モスクワへでも行けばいいじゃないか」
「ほら、あなたはいつだってあたしに、そんなあさましい、よくない考えを結びつけるんですのね」キチイは侮辱と憤激の涙にくれながら、しゃべりだした。「あたしそんなんじゃありませんわ、女々しいだなんて、いいえ・・・ただ、夫が悲しんでいるときには、夫といっしょにいるのが、妻の務めなんだと感じているんですの。それなのに、あなたときたら、わざと、あたしを傷つけようとして、わざとあたしの気持を誤解なさろうとするんですもの・・・」
「いや、こりゃ、たまらん。まるで奴隷になるのと同じじゃないか!」リョーヴィンは、もう自分のいまいましさを隠す力もなく、つと席を立ちながら、こう叫んだ。しかし、その瞬間、彼は自分で自分をなぐっていることを感じた。
「それじゃ、どうして結婚なすったんです?せっかく自由な身でいらっしゃれたのに。後悔なさるくらいなら、いったい、どうして?」彼女はいうと、席を立って、客間のほうへ駆け出して行った。
各家庭の、多様な苦しみと、いさかいと、軋轢とが、平行して描かれる。
少年の心の中には、もう思想と感情の戦いがあった。
「あなたがそうやって落ち着きすましているのが憎らしいわ。あなたがしっかりしていれば、あんなとこまであたしを追いつめずにすんだわ。あたしをほんとに愛していたら・・・」
「アンナ!いったい、どんなつもりで、ぼくの愛情のことなんか持ち出すんだ・・」
「だって、あなたがあたしと同じくらい愛していらしたら、あたしと同じくらい苦しんでいたしたら・・」アンナはおびえたような表情で相手の顔を仰ぎながら、いった。
ヴロンスキーはアンナをかわいそうに思ったが、それにしても、やはりいまいましかった。彼はアンナに自分の愛を誓った。というのは、今はただそれだけが、アンナの気持ちをしずめることができたからだった。彼は言葉に出してアンナを責めなかったが、その心の中ではアンナを責めていた。
彼には、口にするのも照れるような俗っぽい愛の誓いを、アンナはむさぼるように受け入れて、少しづつ落ち着いていった。その翌日、ふたりはすっかり仲直りして、否かへ向けて発って行った。
(こんな状況でもちゃんと愛の言葉を繰り出す男の能力は異常。首尾よく収拾させる男も、だが、心の中では相手を責めていた。火種はなんかの瞬間に、すぐ大きくなる。)