『濹東綺譚(永井荷風)』
荷風荷風っと、日々の記録である断腸亭日乗よりもこちらっの方がこの人のしょーもなさが感じ取れる(私は永井荷風のことを面白い人だとは思うが、昨今の巷の評価のように“粋”だ“洒脱”な江戸人だと云って、いたづらには称揚したくはない)。
あと、木村荘八の挿絵ね。
書き出し、
わたくしはほとんど活動写真を見に行ったことがない。
(「失踪」という劇中作の中の話。)
光子は知名の政治家某の家に雇われ、夫人付の小間使となったが、主人に欺かれて身重になった。主家では執事をして、後の始末をつけさせた。
出会いのシーンはこれっすよ。あてもなく私娼街 玉の井くんだり歩いていると、
静にひろげる傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後ろから、「檀那、そこまで入れてってよ。」といいさま、傘の下に真白な首を突っ込んだ女がある。油の匂で結ったばかりと知られる大きな潰島田(つぶし)には長目に切った銀糸をかけている。わたくしは今方通りがかりに硝子戸と明け放した女髪結の店にあった事を思い出した。
お雪は座布団を取って窓の敷居に載せ、その上に腰をかけて、暫く空の方を見ていたが、「ねえ、あなた」と突然わたくしの手を握り、「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」
それにしても好いた惚れたのというようなもしくはそれに似た柔く温かな感情を起こし得るものとは、夢にも思っていなかった。
→ これを世を拗ねていた50オーバーのおっさんが、当時云ってるから面白いのである。
「
あなた、白玉なら食べるんでしょう。今日はわたしがおごるわ。」
「よく覚えてるなア。そんな事・・」
「覚えてるわよ。実があるんでしょう。だからもう、そこら中浮気するの、お止しなさい。」
「此処へ来ないと、どこか、他の家へ行くと思ってるのか。仕様がない。」
「男は大概そうだもの。」
「白玉が咽喉へつかえるよ。食べる中だけ仲良くしようや。」
この通常であれば妻帯者が、妻との日常の格闘のなかで培っていく“寝技”や“切り返し”をなんなくこなす荷風のコミュ力恐るべし。彼はこれらを全て遊郭や娼婦から体得したのだ。
わたくしは既にお雪の性質を記述した時、快活な女であるとも言い、またその境涯をさほど悲しんでもいないと言った。それは、わたくしが茶の間の片隅に坐って、破団扇の音もなるべくしないように蚊を追いながら、お雪が店先に坐っているときの、こういう様子を暖簾から透かし見て、それから推察したものに外ならない。この推察は極く皮相に止まっているかもしれない。為人なりの一面を見たに過ぎないかも知れない。
→いやそうだろ。冷静なト書き。恋する男はいくつになってもロマン地区1番街。
その夜、お雪が窓口で言った言葉から、わたくしの切ない心持ちはいよいよ切なくなった。今はこれを避けるためには、重ねてその顔を見ないに越したことはない。まだ、今の中ならば、それほど深い悲しみと失望とをお雪の胸に与えずとも済むであろう。お雪はまだその本名をもその生い立ちをも、問われないままに、打ち明ける機会に遭わなかった。今夜あたりがそれとなく別れを告げる瀬戸際で、もしこれを越したなら、取り返しのつかない悲しみを見なければなるまいというような心持ちが、夜のふけかけるに連れて、わけもなく激しくなってくる。
→おおう、冷静だな。さすがじいさんだ。
相変わらず窓に坐っていることはわかりきっていながら、それとなく顔だけ見に行きたくて堪らない。
わたしくは散歩したいにもその処がない。尋ねたいと思う人は皆先に死んでしまった。
『濹東綺譚』はここに筆を置くべきであろう。しかしながらもしここに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、半年あるいは一年の後、わたくしが思いがけない処で、既に素人になっているお雪に廻り逢う一節を書き添えればよいであろう。なおまた、この偶然の邂逅をして更に感傷的ならしめようと思ったなら、摺れちがう自動車とかあるいは列車の窓から、互に顔を見合わしながら、言葉を交わしたいにも交わすことの出来ない場面を設ければよいであろう。
→おおう、こんな時代からそれが「古風な小説的結末」とか言われちゃうのか...