『憂国(三島由紀夫)』
心中、それが一番美しいと三島は云った。
おそらく現代人には分からない感覚だろう。
「死んではダメだ。自死は罪深い、ましてや誰かを巻き添えに死ぬなんて愚かだ」まっとうな現代人はそう言うだろう。
しかし、それは平和な時代を生きているわたしたちの標語に過ぎず、戦後に、戦後民主主義よろしく、金科玉条のごとく無批判に繰り返されたある種の“宗教”みたいなもの。
自分の死に際を自分で決める、そうでもなければどうして自分の生に責任がもてよう。
三島はそう考えるのである。
二・二六事件突発後、親友が叛乱群に加入せることに懊悩を重ね、皇軍相撃の事態必至となりたる情勢に痛憤して、自刃を遂げたり。武山中尉、享年三十歳、夫人二十三歳。
床に入る前に、信二は軍刀を膝の前に置き、軍人らしい訓戒を垂れた。軍人の妻たる者は、いつなんどきでも良人の死を覚悟していなければならない。
麗子の体は白く、厳かで、盛り上がった乳房は、いかにも力強い拒否の潔らかさを示しながら、一旦受け容れたあとでは、それが塒の温かさを湛えた。かれらは床の中でも怖ろしいほど、厳粛なほどまじめだった。おいおい烈しくなら狂態のさなかでもまじめだった。
麗子は雪の朝ものも言わずに駆け出して行った中尉の顔に、すでに死の決意を読んだのである。良人がこのまま生きて帰らなかった場合は、後を追う覚悟はできている。
しかも麗子は、思うだにときめいて来る日夜の肉の悦びを、快楽などという名で呼んだことは一度もなかった。美しい手の指は、二月の寒さの上に、陶器の栗鼠の氷るような手ざわりを保っているが、そうしているあいだにも、中尉の逞しい腕が延びてくる刹那を思うと、きちんと着た銘仙の裾前の同じ模様のくりかえしの下に、麗子は雪を融かす熱い果肉の潤いを感じた。
「よし。一緒に行こう。但し、俺の切腹を見届けてもらいたいんだ。」
こうして健気な覚悟を示された中尉は、悲しみが少しもなく、心は甘い情緒に充たされた。若い妻の子供らしい買い物を見せられた良人のように、中尉はいとしさのあまり、妻をうしろから抱いて首筋に接吻した。
風呂から上がった中尉は、つややかな頬に青い剃り跡を光らせて、よく熾った火鉢のかたわらにあぐらをかいた。忙しいあいだに麗子が手早く顔を直したのを中尉は知った。頬や花やぎ、唇に潤いをまし、悲しみの影もなかった。若い妻のこんな烈しい性格のしるしを見て、彼は本当に選ぶべき妻を選んだと感じた。
麗子が階段を上がってくる足音がする。古い家の急な階段はよくきしんだ。このきしみは懐かしく、何度となく中尉は寝床に待っていて、この甘美なきしみを聴いたのである。二度とこれを聴くことがないと思うと、彼はそこに耳を集中して、貴重な時間の一瞬一瞬を、その柔らかい足の裏が立てるきしみで隈なく充たそうと試みた。そうして時間は煌めきを放ち、宝石のようになった。
麗子は叫んだ。高みから奈落へ落ち、奈落から翼を得て、又目くるめく高みへまで天翔った。中尉は長駆する聯隊旗手のように喘いだ。・・・そして、一トめぐりがおわると又たちまち情意に溢れて、二人はふたたび相携えて、疲れるけしきもなく、一息に頂きへ登って行った。
麗子は咽喉元へ刃先をあてた。一つ突いた。浅かった。頭がひどく熱して来て、手がめちゃくちゃくに動いた。刃を横に強く引く。口の中に温かいものが迸り、目先は吹き上げる血の幻で真っ赤になった。彼女は力を得て、刃先を強く咽喉の奥へ刺し通した。
「憂国」